死に方について  浄土真宗について
  自力について   他力について
 真の仏弟子について  他宗・他派との関係について
   「如来と等し」ということについて  自然について
  阿弥陀如来について  愚者ということについて
  浄土に生まれるということについて   五説について
   本願と名号の関係について  信じるということについて
  信心と念仏について@  信心と念仏についてA
   信心定まるということについて  釈尊と阿弥陀如来について
  ◇ 信心の人のあり方について  ◇ 浄土に生まれるということについて
  ◇ 教えは誰のために  ◇ 念仏者の日暮
 ◇ 念仏者は悪いことをしてもいいのか  ◇ 本当にお浄土に生まれることができるか
  ◇ 煩悩のまま生きればいいのか   ◇ 往生願ふしるし
  ◇ 仏法を学ぶということ  ◇ 「いとう」ということ
  ◇ み教えを聞くために   ◇ ひろまってほしいもの
  ◇ 道を求めるということ   ◇ 「いのり」ということ
  ◇ 国民のために念仏を  ◇ 世のなか安穏なれ
  ◇ 往生一定の人生  ◇ 念仏のすすめのもの
  ◇ 身と頭が一つになって  ◇ 心を詮索するな
 ◇ 「般若心経」を読まないわけ  ◇ 行者のはからい
  ◇ 阿弥陀仏と諸仏・諸菩薩  ◇ 念仏の妨をする人
  ◇ 悪人正機とは   ◇ 念仏とひがごと
  ◇ 一番のひがごと   ◇ 如来の心に遇う
 ◇ 心よりおこる病   ◇ 信願坊の間違い
 ◇ 師子身中の蟲   ◇ テレビが悪いのか
 ◇ 余の人を縁とせず   ◇ 認められなくとも
  ◇ 詮ずるところは信心  ◇ 信ありという人が
 ◇ 念仏そしる人をいのる   ◇ 如来の光について
  ◇ 第17願の心   ◇ 念仏が往生の因
  ◇ 義なきを 義とす
◇ 死に方について

あの人はいい死に方をされた。あの人の死に方はよくない。というような言葉を今でもよく耳にします。死に方を問題にするものは、問題のしかたは違いましても、今も昔も変わらないようであります。親鸞聖人当時は、来迎があるかないかで、臨終が問題になっていました。
親鸞聖人は、

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるが故に

と喝破されています。すなわち、来迎があるとかないとかと、臨終を問題にする人は、自分のやったことだけを問題にし、評価して生きてきた人です。そのような自力の人にとって「死は自分が生涯かけてやってきた行為の総決算になりますから、どうしても死に方が問題になるのです」と、聖人はいわれるのです。考えてみますと、死ぬ時に一生の総決算をするというか、総評価をされるくらい、つらい、不安な生き方はありません。それでは死ぬが死ぬまで心のやすまる時がないのではないでしょうか。

親鸞聖人は、

  真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。この故に臨終まつことなし、
 来迎たのむことなし、信心の定まるとき往生また定まるなり

と死に方や臨終を問題にしなくてもいい生き方を教えてくださいました。
「どんなことがあっても、私がほっておかないよ」とだきしめてくださる阿弥陀如来にいだかれて生きるものは、どのような死に方をしようが、間違いなく阿弥陀如来の浄土に生まれることができると教えてくださるのです。それとも、阿弥陀如来におまかせする今、間違いなく浄土に生まれる身と定まるといわれるのです。
 死に方も多様化した現代において、私たちもどのような死に方をするかわかりません。
どのような死に方をしても、お浄土に生まれるという大安心の日暮しをさせて頂く人生をあきらかにしてくださったのが、親鸞聖人であります。

◇浄土真宗について

五月二十一日は、浄土真宗のご開山親鸞聖人のお誕生日です。親鸞聖人が九十年の生涯をかけて明らかにしてくださった浄土真宗とはどんな教えでしょう。
 浄土真宗とは、念仏さえしておれば、死後、浄土に生まれる教え、何も努力もしなくてもすくわれる教えであると思っている人は、意外に多いのではないでしょうか。

親鸞聖人は

 選択本願は浄土真宗なり

といいきられました。選択本願とは、阿弥陀如来の「どんなことがあっても、私たちを見捨てることができない」と誓ってくだっさった四十八の願いの中の第十八番目の願、いわゆる第十八願のことであります。第十八願とは、「私たちのことを他人事とほっておくことができない」という阿弥陀如来のお心にただ一すじに順うだけで、この人生を生き抜く力をあたえ、間違いなく浄土に生まれさせると誓ってくださった願いなのです。

 他人の目を気にし、迷信・俗信にまどわされて、右往左往している私たちです。
毎日の生活がすこし順調にいけば、うぬぼれて己を見失い、思い通りにいかないと、周りにあたりちらし、やはり、己を見失う私たち。そんな私たちに「人生、いい時もわるい時も、いつも私がついていますよ。つまらないところで寄り道せずに、やれるだけのことでいいからやってごらん」とはげまし、ささえてくださるのが阿弥陀如来です。
 
 この阿弥陀如来のお心に、ただ一すじに順って「やれるだけのことだけでもやってみよう」と立ちあがっていくとき、私たちの人生は、前進を始めるのです。選択本願によって生きる道が恵まれるのです。それが浄土真宗であります。 なを、浄土真宗において、念仏とは、阿弥陀如来の私たちのよろこびと感謝の声であります。また、他力「どんなことがあっても私がいるよ」と私たちをささえてくださる阿弥陀如来のおはたらきであります。






法話

「念仏ひとつ」から

著作   藤田  徹文