人間とはむつかしいものです。悪人正機といえば、どれほど悪いことをしてもすくってくださる阿弥陀さまと、自らの悪を自らが許して、そこに胡坐をかき、反対にそんなことではいけないと言うと、「こうあらねば、こう思わねば」と、自らの行動や思いを条件にして、すくわれるような思い違いをする人がでてきます。
み教えをよく聞いておられる人から、「なかなかよろこべません。こんなことでいいのでしょうか」というお尋ねを受けますと、この人は何を聞いてこられたのかなと、申し訳ないことですが、そんなことを思うことがあります。
いつの間にか、これだけみ教えを聞かせていただいているのだから、「こうならなければ、ああ思わなければ」と、自らの姿や心の状態ばかりを気にして、阿弥陀如来のお心を見失っておられるのです。もっと極端なことになりますと、「如来さまにご迷惑かけないように」というようなことになります。
聞くというのは、どんなことがあっても私を捨てることのない確かな阿弥陀如来のいてくださることと、自分の心なり思いがいかにあてにならないかということがあきらかになることなのです。
それなのに、まだ自分の心を問題にしているならば、よほど自分は確かなもので、間違いのないものだと思っているのでしょう。
親鸞聖人は、
「かかる悪き見なれば僻事を殊更に好みて
念仏の人々の障りとなり、師の為にも善知識
の為にも咎となさせたまふべし」と申すことは
ゆめゆめなきことなり
とご注意くださいました。
殊更に僻事を好むのも問題ですが、だから僻事をしたかどういう
のも問題です。
「どんなことがあってもあなたを見捨てることはない」という確かな阿弥陀如来のお心を聞くことこそ浄土真宗なのです。