◇ み教えを聞くために

 最近、毎日のように目にし、耳にするニュースが「校内暴力」であります。とうとう先日は、先生が生徒を刺すというような事件までおこりました。

 先生に対する敬いがなくなった状態で、はたして教育ができるのでしょうか。教育は健全な師弟関係と友人関係があってはじめて全うされるものではないでしょうか。

 仏法を聞くのも同じことです。師をかろんじるような状態で、み教えを聞くことはできません。また、共にひざをならべてみ教えを聞く仲間同士がいがみ合っているようでは、み教えを聞くことはできません。み教えをとりついでくださる師を敬い、共にみ教えを聞く仲間とむつみ合う中で、み教えは聞けるのです。

 このことを親鸞聖人は、

 

 師をそしり善知識をかろしめ同行をもあなづりなんどしあはせたまふ由聞き候ふこそ浅ましく候へ、すでに謗法の人なり、五逆の人なり、なれ睦ぶべからず『浄土論』と申す文には「かやうの人は仏法信ずる心のなきよりこの心はおこるなり」と候ふめり、また至誠心のなかには「かやうに悪をこのまんには慎んで遠ざかれ、近ずくべからず」とこそ説かれて候へ「善知識・同行には親しみ近づけ」とこそ説きおかれ候へ

 

 と、強い言葉でご注意くださいます。

 すなわち、親鸞聖人は「師の悪口をいったり、み教えを聞く仲間を馬鹿にするようなものは、すでにみ教えを謗る人であり、人間として生きる一番大切なご恩を逆なでする人であり、最も重い罪をつくっている人です。

 そのような人と、親しくすべきではありません」とまでいいきられ、さらに「そのような人は結局、本気でみ教えを聞こうとする気のない人です」という『浄土論』の言葉を引いて、本当にみ教えを聞こうとする人は、なるべく、そのような人に近づかない方がいいとまでいわれています。

 み教えを聞こうとするものは、まず、よき師・よき友を持つことが何より大切です。