◇ 余の人を縁とせず

 努力しても努力しても成果のあがらないとき、グチをこぼさずにはおれないのが私たちです。

 そのグチの中には必ず、「あの人がああしてくださったら、もうすこし成果があがったのに」「この人があの時、こう動いてくださったら、こんな結果にはならなかったのに」と、他の人をうらんだり、他の人の動きを中傷するようなものが含まれています。

 み教えをひろめることにおいても同じことがいえます。「こんな素晴らしい教えがひろまらないのは、世の中が悪い、政治家が悪い、テレビが悪い、現世祈祷をいう宗教家が悪い」等とまわりのものすべてを悪者にして、当たり散らししているようなこともあります。

 このように他のものを悪者にしてあたり散らしているのは、あたり散らす人の中に、どこかで、他の人なり、他のものの力をあてにし、期待する心があるからです。

 もっといいますと、自分のやっていることはいいことなのだから、まわりの人がそのことを理解し、協力してくれて当然という思いに、いつの間にか立っているのではないでしょうか。

 特に、自らのあり方を知らされ、自らの「いのち」のよりどころを恵まれたよろこびを一人でも多くの人に聞いてもらおう、知ってもらおうという伝道において、他の人がどうのこうのということはあってはならないことです。

 親鸞聖人は、

 

 念仏を障へらるなんど申さん事にともかくも歎き思召すべからず候、

 念仏止めん人こそいかにもなり候はめ、申したまふ人は何か苦しく

 候ふべき、餘の人々を縁として念仏を弘めんと計ひ合せ給うこと、

 ゆめゆめあるべからざる候、そのところに念仏の弘り候はんことも

 仏天の御はからひにて候ふべし

 

といいきられています。

 今一度、聖人のお言葉をしっかりとかみしめて頂きたいものです。