◇ 仏法を学ぶということ

 「私たちのように、聞いても、聞いてもすぐに忘れてしまい、法文の一句も覚えることのできないものでもお救いに預かる事ができるのでしょうか」とか、また、「お話を聞かせて頂くとか、お経のご文や、親鸞聖人のお言葉をいろいろに言い換え、いろいろな面から味わってくださるのですが、聞けば聞くほど何がどうなっているのかわからなくなってしまいます。浄土真宗って、本当にむつかしい教えですね」と、ため息まじりに話される人があります。

 親鸞聖人当時にも、いろいろと法文をいいかえたり、難しい議論をして、素朴にみ教えを聞こうとする人を大いにまどわす人がいたようです。

 親鸞聖人は

 

 法然上人の御弟子のなかにも「われはゆゆしき学生」などとおもひあひたる人々もこの世には皆やうやうに法文をいひかへて身も惑ひ人をも惑はして煩ひおうて候ふめり、聖教の教をも見ず知らぬ各々のように在します人々には「往生に障なし」とばかり言ふをききて悪様に御心得あることほく候ひき、今もさこそ候ふらめとおぼえ候

 

 と、聖人当時の様子を記されています。

 すなわち、少し勉強した人は、自分は一角の学者にでもなったつもりになって、法文をもてあそんで、自らも真実を見失い、素朴にみ教えを聞いている人々に法文の一つも覚えられないようでどうするか、そんなことでは浄土に生まれることもおぼつかない等とおどかし、惑わせています。

 また反対に、み教えを中途半端に聞いてわかったつもりになっている人は、どれほど悪いことを行っても救ってくださる阿弥陀如来だから、なにをしてもかまわないとばかりに、平気で悪いことをして、いかにもそれが念仏よろこぶもののあり方のように振舞っています。今においてもそこから一歩も出ていない。と、親鸞聖人はなげいておられるのです。