◇ 心を詮索するな

 よくよくみ教えを聞いておられる方でも、話を聞いていますと、「よろこべる、よろこばれない」「心が落ち着く、落ち着かない」等と自分の心のあり様ばかりを問題にしておられることが多いようです。

 私たちの心を親鸞聖人は「サル」にたとえられます。今は、「パンダ」や「コアラ」といった動物に人気が移ったようですが、私の子供の頃の動物園の人気ものは「サル」でした。なぜ「サル」に人気があったのかといいますと、一時もじっとすることなく、動きづめに動いているからです。

 「サル」が動いていて子供の人気ものになるのはいいことですが、心が「サル」のように落ち着かないのは困ったことです。

 しかし、どれほど困っても、私たちの心は「サル」のように落ち着かないのです。その一時もじっとしていない心の一挙手一投足に一喜一憂して一生を終るほど悲しいことはありません。

 一時もじっとしていない心をよりどころに生きるのでなく、「どんなことがあっても私がいます」と呼びかけてくださる阿弥陀如来の呼び声にささえられ、あぶなっかしい私があぶなっかしいままに精いっぱい生きていく道が親鸞聖人の教えてくださった念仏の道であります。心を問題にしていく教えは自力聖道の道であります。心を問題にしていく教えは自力聖道の道であります。そのことを聖人は

 

 「有念・無念」と申す事は他力の法門にはあらぬことにて候

 聖道門に申すことにて候ふなり、みな自力聖道の法文なり

 阿弥陀如来の選択本願念仏は有念の義にもあらず無念の義に

 にもあらずとまをし候ふなり

 

とあきらかにしてくださいました。このような親鸞聖人のご指南を受けて、私たちの先輩は「自らの手元、すなわち、自らの心やら罪業を詮索するのでなく、

阿弥陀如来の間違いのないお手元、すなわちご本願を聞け」と教えてくださいました。

 阿弥陀如来にまちがいがないと聞き開くのが浄土真宗なのです。