「武士は食わねど高揚子」という言葉もありますが、私たちの中にはお金のことをあれこれ言うことを心よしとしない気風がどこかにあるようです。ですから、あまりお金のことを細かく言うと、ひどい場合は「汚い奴だ」というようなことさえいわれます。そして、お金のことをあまりいわない人を「きれいな人だ」と賞賛します。
「現代の世界を支配しているのは政治でなく、経済である」といわれる今日において、こんな感覚でいいのでしょうか。私はどうかなと思うのです。貨幣経済の世の中で、お金は私たちが生きる上において最も大切なものの一つです。それをおろそかにしては、私たちの人生生活は成立ちません。
親鸞聖人はお金をどのように見ておられたのでしょうか。聖人のお手紙に、
教忍御坊より銭二百文御志の物賜はりて候、
さきに念仏のすすめのもの方々の御中より
とて確に賜りて候ひき、人々によろこび申さ
せたまふべく候
という一節があります。
京都に帰られた親鸞聖人に、関東の門信徒の人たちのご懇念を教忍坊がまとめてとどけたのです。そのことのお礼のお手紙の一節ですが、親鸞聖人はそのお金を「念仏のすすめのもの」として受け取られ、「人々によろこび申させたまふべく」といわれるのです。
銭二百文が、今日のお金にしますとどのくらいになるのか正確にはわかりませんが、かなりの額になると思います。その多額のお金を「念仏をすすめさせていただくためのもの」として、堂々と受け取っておられるのです。
私たちなら多額のお金を頂くと、卑屈になりがちですが、親鸞聖人にはそのようなところが少しもありません。
それは、自らの利のみを考えて生きるものと、みんなの幸せのために念仏をすすめて生きるものの違いです。そうであればこそ、「人々によろこび申させたまふべく候」といいきられたのです。