◇ 信心の人のあり方について
「信心を得たらどうなるのですか。何か特別な能力でもでてくるのですか。それとも、何か特別の人生が開けるのですか。腹も立たなければ欲の心も起こってこないような人間になるのですか」と、聞かる人がいます。
このような問いに対して、親鸞聖人は、ご和讃で
真実信心うるひとは
すなわち定聚の数に入る
不退の位に入りぬれば
必ず滅度をさとらしむ
とお答えくださっています。すなわち、真実信心の人は「定聚の数に入る」のだといわれるのです。定聚とは、間違いなくお浄土にうまれさせて頂く仲間と言うことです。
私たちは、自らの人生の方向があきらかになっているでしょうか。その時その時の状況で右に行ったり、左に行ったりというような方向の定まらない人生を生きているのではないでしょうか。
ある時は、みんなが右に行くからと、みんなについて右に進み、又ある時は、あの人が左がいいというからと左に進み、結局同じところを右往左往しているような毎日の日暮になっているのではないでしょうか。どちらに進んでいけば、真実に出会うことが出来るかということがわからずに、時の流れに身を任せて泣いたり、笑ったりして、この人生を終わってしまうならば、あまりにも悲しいことです。
信心とは、阿弥陀如来の真実にであって、そういう自らのあり方と、自らの進んでいく方向があきらかになることです。
ですから、信心の人は、私たちの周りにあるいろいろなものに迷わされずに、阿弥陀如来に導かれて、一すじに浄土への人生を生きるのです。
このような人生を生きた人は、命終れば直ちに浄土に生まれ、永遠の生命を頂き、何ものにもさまたげられることなく、苦悩する人々を救うはたらきをさせて頂くのです。すなわち、阿弥陀如来と同じはたらきをさせて頂く身になるのです。