「念仏さえ唱えていれば、どんな悪いことをしても救われる教え」のように、浄土真宗を理解しておられる人もいますし、また、「念仏はしなくても信心さえあれば救われる教え」が浄土真宗であるように受け取っている人もいます。
親鸞聖人は、このことについて、
信を離れたる行もなし、行の一念をはなれたる
信の一念もなし。その故は「行」と申すは、「本願
の名号を一聲となへて往生す」と申すことを聞きて
一聲をも稱へもしは十念をもせんは行なり。
この御誓をきき、疑う心の少も無きを「信の一念」
と申すなり。
信と行と二ときけども、行を一聲すると聞きて疑わねば、
行を離れたる信は無しと聞きて候、また信を離れたる
行なしと思召すべし、これ皆弥陀の御誓と申すことを
心得べし、行と信とは御誓を申すなり
と詳しくお述べ下さいます。すなわち、お念仏を申すと言っても、ただ口先で「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」といっておれば言いということではありません。「どんなことがあっても、あなたを救う」と呼び続けてくださる阿弥陀如来の呼び声に信順してお念仏申すのであります。
ですから、お念仏とは、阿弥陀如来のお心に信順する心が、言葉となって現われた相であります。また、信心といいましても、阿弥陀如来の呼び声に信順する心のほかには
ありません。
念仏申しながら、その念仏の一声一声を阿弥陀如来の呼び声と頂戴していく心の相が信心であります。このように、念仏と信心は一つのものなのです。
阿弥陀如来の「どんなことがあってもあなたを救う」というご本願に遇ったよろこびの相が信心であり、念仏であります。
ですから、「念仏さえしておれば」とか、「信心さえあれば」と、何か念仏と信心を別のもののように理解するのは間違いであります。