阿弥陀如来について

 二千五百年前、インドにお生まれになって、八十年の生涯を送られたお釈迦さまのことは信じられるが、おとぎ話のような阿弥陀さまの話など聞く気になれないという人はすくなくありません。 いわれるように、私たちの阿弥陀さまは、『仏説無量寿経』において、お釈迦さまが解きあかしてくださった仏さまであります。

 すなわち、『経』には、一国の王子であった方が、世自在王仏という仏さまにであって感動し、出家して法蔵比丘となり、「どんなことがあっても私たちをすくう」という四十八の願を建て、深い深い思惟と、長い長い修行を経て、阿弥陀如来となられたと説かれています。

 親鸞聖人は、阿弥陀如来をどのように受けとめられておられたのでしょうか。関東のお弟子の人に出されたお手紙の中に

 かたちもましまさぬやうを知らせんとて始めて『弥陀仏』をもうすぞ聞きならひて候。弥陀仏は自然のやうを知らせん料なり

と書いておられます。すなわち、阿弥陀如来とは、私たちの生命を常にささえ、生かしつづけてくださる限りない寿命と光のはたらきを、私たちに知らせるために、私たちの前にお姿をあらわしてくださった方だといわれるのです。

 自分の小さな思いや、はからいの殻の中で一人で力んで、一人できばって、一人相撲をとっている私たちを、昔の昔からしっかりとささえ、私たちに広い広い世界を知らせようという真実がはたらきつづけています。

 私たちは、そのはたらきに気づいていません。自分の頭でとらえられる範囲だけが世界だと思いあやまって、小さな殻にとじこもり、泣いたり笑ったり、腹を立てたりグチをこぼしたりして人生を終っていきます。そんな私たちに、限りない寿命と光のアミダの世界を知らせんがためにお姿をあらわしてくださった方が、阿弥陀如来なのです。

◇愚者 ということについて

 すこしでも楽をして、損をしないように上手に生きることのできる人を、世間では賢い人といいます。それに対して、苦労しても、損をしても、真正直に生きようという生まじめな人は変わりものといわれ、あまり高く評価されないようです。

 お浄土への人生を歩むものは、どのように生きるのが本当でしょうか。

 親鸞聖人は

 故法然上人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしこと確に承り候ひし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるを御覧じては「往生必定すべし」とて笑ませたまひしを見まゐらせ候ひき、文沙汰してさがさしき人の参りたるをば「往生はいかがあらんずらん」と確かに承りき、今にいたるまで思ひあはせられ候ふなり

と、若い時に聞いた法然上人のお言葉を繰り返し味わっていかれました。

 阿弥陀如来の「どんなことがあっても私がいるよ」とはげましてくださる南無阿弥陀仏の呼び声一つを力として、楽しいとか、損だとかということを考えず、また、ああだこうだと理屈をこねることもなく、ただ自分の人生を精一ぱい生きていく者は、間違いなく浄土に生まれるといわれた法然上人のお言葉、すなわち「愚者になりて往生す」という言葉をしっかりと身に受けとめて生きられたのが親鸞聖人でありました。

 馬鹿だといわれようと、愚だといわれようと、小手先でものごとを処理するような生き方でなく、南無阿弥陀仏一つをよりどころに愚直に、全身で自分の人生にぶつかっていく愚者こそ間違いなくお浄土に生まれ、ご文がどうの、言葉がどうのと、経文や法話の言葉を、賢こそうにひねくりまわしている人は、果たしてお浄土に生まれることができるだろうか、といわれた法然上人のお言葉に順って、愚直に生きられたのが親鸞聖人でありました。