念仏をそしる人をいのる

「他力本願」の誤用等があると、「あの人たちには浄土真宗がわかっていない」と、言葉を尽くして非難し、また新宗教の活発な活動にふれて、「あの宗教は現世利益を説くので、みんな欲にかられて動いている」と批判する人が、悲しいことですが、私たちの教団の中にもいます。

 確かに、自らのよろこぶみ教えを誤解されたり、否定するような活動を見ることはやりきれないものです。しかし、だからといって、それらを非難したり、攻撃するだけではどうにもなりません。いや、それよりも、自分と違う道をあゆむ人を非難し、攻撃することはみ教えに生きるもののとるべき方法ではありません。

 では、念仏を謗る人にどう対したらいいのでしょうか。親鸞聖人は、

 

 念仏を御心にいれてつねに申して、念仏

 そしらん人びと此世、後の世までの事をい

 のりあはせたまふべく候

 

といわれ、さらに

 

ただ假うたる世の人びとをいのり弥陀の御誓にいれと思召しあはば、仏の御恩を報じまいらせたまふになり候ふべし。よくよく御心にいれて申し合わせたまふべく候。聖人(法然上人)の廿五日の御念仏も詮ずる所はかやうの邪見の者をたすけん料(ため)にこそ申しあはせたまへと申すことにて候へば、よくよく念仏誹らん人をたすかれと思召して念仏しあはせたまふべく候

 

とまでいわれています。

 すなわち、「念仏誹らん人の、この世だけでなく、後の世の幸せまで念じよ」といわれるのです。

 そして、「念仏誹る人が阿弥陀如来の広い広いお心に遇ってくださるならば、これこそ仏恩報謝の行である」とまでいいきられ、さらに念仏をよろこぶご法座も、そのことを申しあわせる場であるといわるのです。