「ただ念仏」の教えは、阿弥陀如来以外の諸仏・諸菩薩を否定する教えではありません。
「ただ念仏」とは、阿弥陀如来の「どんなことがあっても私がいます。恵まれた『いのち』を精いっぱい生きなさい」の呼び声ひとつを、わが「いのち」のささえとし、よりどころとして生きるということです。
ですから、わが「いのち」のよりどころ、わが「いのち」の帰るところは、阿弥陀如来の呼び声のもとであるというのが「ただ念仏」ということであって、他の仏・菩薩は粗末にしていいということではありません。それどころか多くの諸仏・諸菩薩に育てられて、ここに本当のよるべ、帰る処に目覚めさせていただくのが私たちです。
すなわち、真の帰依処である阿弥陀如来に遇わせてくださったのが諸仏・諸菩薩です。私たちが親の本当のありがたさがわかるのも社会の荒波にもまれ、多くの人に直接・間接に教えられてのことです。誰に教えられなくとも、親の本当のありがたさぐらい、はじめからわかっていたという人がいるでしょうか。それと同じで、阿弥陀如来こそ私の「いのち」の本当の帰依処であるということが受け取れたのも、多くの諸仏・諸菩薩のおかげであります。
親鸞聖人はお手紙で、関東の同行に、
世々生々に無量無辺の諸仏菩薩の利益によりて、萬の善を修行せしかども
自力にては生死を出でずありし故に曠劫多生のあひだ諸仏菩薩の御勧によりて、今まうあひ難き弥陀の御誓にあひまいらせて候ふ御恩を知らずして、よろづの仏菩薩を仇に申さんは、深き御恩を知らず候ふべし
とお述べになっています。
だからといって、諸仏・諸菩薩を阿弥陀如来と同じように「いのち」のよりどころにせよということではありません。