「浄土真宗のお話を聞かせて頂くと、本願を聞くのですよとお話下さる先生もあれば、南無阿弥陀仏の名号を聞かせて頂くのですよとお話下さる先生もありますが、一体どちらが本当なのですか。」という質問をされた方があります。
確かに、話される先生によって、本願を強調される先生がありますから、このような疑問を持たれるのは当然だと思います。
親鸞聖人当時も同じことが問題になっていました。このような疑問に親鸞聖人は
誓願・名号と申してかわりたること候はず、誓願を離れたる名号も候はず、名号を離れたる誓願も候はず候、かく申し候ふもはからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じ称へる上は何條わがはからひを致すべき、ききわけ、しりわくるなど煩はしくは仰せられ候ふやらん、これ皆僻言にて候ふなり。ただ不思議と信じつる上は、とかく御計あるべからず候
とお答え下さってます。すなわち、「本願と言っても、名号といっても同じことで少しも変りません」と言い切られ、その理由を、「どんなことがあっても、あなたを見捨てることが出来ない」という本願を離れて、南無阿弥陀仏の呼び声もなく、「どんな時でも私がいますよ」と、呼び続けてくださる南無阿弥陀仏の名号とならない本願はないからであると、明らかにして下さるのです。
そして、さらに、もし、本願がどうの、名号がどうのと、解かったような事を言うことがあれば、そのこと自体間違いであると、厳しく注意して下さるのです。
浄土真宗は「どんなことがあってもあなたを救う」と誓い、呼んでくださる阿弥陀如来の不思議なおはたらきを喜ばせて頂く以外にないのであります。