「なにをしてもおすくいくださるのが絶対他力の阿弥陀さま」と、自らの横着に胡坐をかいて横着三昧の日々を送り、また「門徒は何も知らなくていい」と、自らの宗教的無知を無反省に許し、ひどい場合は、「朝夕のおつとめをしなくても、寺に参らなくてもすくってくださる阿弥陀さま」と一人決めしている輩もいるようです。
親鸞聖人は本当にそんなことを教えてくださったのでしょうか。もっといいますと、そんな横着者をそのまま抱きしめて、すくってくださるという横着な教えが七百年以上も続くでしょうか。だれが考えてもおかしいと思います。
親鸞聖人は、
念仏の人僻事をまをし候はば、その身ひとりこそ地獄にも落ち天魔ともなり候はめ、よろづの念仏者の咎になるべしとは覚えず候、よくよく御はからひども候ふべし、なほなほ念仏せさせたまふ人々よくよくこの文を御覧じ、とかせたまふべし
と関東のお同行に書き送られています。なんと厳しいお言葉でしょうか。
してはいけないことをし、言うべきでないことを言い、思ってはならないことを思って、何の痛みも感じず、そんな私がおすくいにあづかるのだと平然とうそぶいているようなら、「その身ひとりこそ地獄にも落ち天魔ともなり候はめ」といいきられているのです。
では、してはいけないこと、言うべきでないこと、思ってはならないこととは何でしょうか。
私は、多くの「いのち」にささえられ生かされている私が、周りの「いのち」を無反省にとったり、傷つけるようなことをしても、言っても、思ってもいけないと受けとめさせて頂いています。
人間が人間を差別することが、正しく、このことにあたると思います。一番ひどい僻事は差別であると思います。