◇ 念仏者の日暮
お話を聞いているときには、ありがたいという思いも、少しは湧いて来ますが、家に帰れば、もとの木阿弥、ありがたいという気持などどこかに消えてしまいます。いわんや、毎日の日暮ということになれば、ありがたいどころか、腹の立つことやら、ムシャクシャすることばかりです。こんなことでいいのでしょうかというような質問にしばしばであいます。
「こんなことでいいのか」といわれて、「それでいい」とはいえませんが、だからといって「常にありがたいという思う心がなければ」というような調子のいいこともいえません。いくら調子のいいことをいっても、私たちの毎日はありがたいどころか、質問のように、イライラ、ムシャクシャの日暮であります。
親鸞聖人のお弟子の慶信房は
世間の怱々に紛れて一時もしは二時・三時怠るといへども、
昼夜に忘れず御あはれみを喜ぶ業力ばかりにて、行往坐臥に
時處の不浄をもきらはず、一向に金剛の信心ばかりにて、仏恩
のふかさ・師主の御徳のうれしさ、報謝のためにただ御名を
称ふるばかりにて日の所作とす
といわれています。
すなわち、私たちはどれほど偉そうなことを言っても、ついつい世間のあわただしさにまきこまれて、しょっちゅう、自分を失い、阿弥陀如来のお心を見失っています。
しかし、私は、昼夜をわかたず常に私たちのことを案じてくださる阿弥陀如来のはたらきにささえられて日暮させて頂くばかりです。仕事をしている時も、休んでいる時も、起きている時も、寝ている時も、それこそどんな時でも、どんなところでも変ることなく私たちを見護ってくださる阿弥陀如来のお心をよろこんで日暮しさせて頂くばかりです。
また阿弥陀如来のご恩の深さを喜び、念仏の人生を教えてくださった素晴らしい師にあった喜び、お念仏申して日暮させて頂くばかりです。と、慶信房は念仏に遇った喜びの中に日暮されたのです。