生まれるということは、お母さんの小さなお腹の中から、広いこの世に出していただくということであります。ですから、この「いのち」を生きるとは、広い広いこの世を、思いきり手足を伸ばして、天地いっぱいを生ききることでなければなりません。
ところが、私たちの毎日はどうなっているでしょうか。広い広いこの世いっぱいを生ききっているでしょうか。どうもそうなっていないようです。
広い広い世界に生まれながら、「わしが、俺が」の小さな「我」の殻の中にとじこもって、自分の思い通りにことが進むとよろこび、少しでも思いにそむわないことがあれば腹を立てるというようなことではないでしょうか。そして、ひどい場合は「あいつが」、「どいつが」と、周りの人を仇のように思い込み、中傷したりします。
一つの時代に、一つの地域に「いのち」を恵まれながら、また、一つの屋根の下にいっしょに生活しながら、こんなことではあまりにも悲しいことです。
信心とは、み教えを聞いて自らのこのようなあり方に目覚め、本当の「いのち」のあり方に目覚めることです。
本当の「いのち」のあり方は、「どんなことがあってもあなたを見捨てることができない」という阿弥陀如来にささえられ、御同朋と共に生かされていきているのです。
み教えに遇って、このことに目が覚めて初めて、私たちは「わしが、俺が」の小さな「我」の殻から出ることが出来るのです。そして、「如来さまが」「御同朋が」という広い世界に出るのです。
この「我」の殻から、「如来さまが」「御同朋が」の広い世界に出て、広い広いこの世を天地いっぱい生きる身となることを親鸞聖人は「即得往生」とよろこばれ、さらに、この身が終って、完全に自他の溝をこえることを「難思議往生」とよろこばれました。
親鸞聖人はこのような人生の開けることを、
往生一定と思ひ定められ候
とよろこばれました。