如来の光について
「阿弥陀如来の光に照らされている自分を知らされると聞きますが、阿弥陀如来の光とはどんな光かよくわかりません」と言う方がありました。そういえば、浄土真宗のお話の中には光とか光明という言葉がよく出ます。
親鸞聖人は「この如来は光明なり」(尊号真像銘文)といいきられ、光明とは阿弥陀如来のことであると教えてくださいました。それなら「阿弥陀如来の光」という言葉使いはおかしいのではと思われる方があるかも知れません。「阿弥陀如来が光明」なら、「光明の光」ということで、おかしいと思われるのももっともです。
阿弥陀如来は真実を見失っている私たちに真実を見せてくださるので光というのですが、ただ光といっただけでは、太陽の光も月の光も光ですから、重なるようですが「阿弥陀如来の光」というのです。
そして、さらに親鸞聖人は「弥陀の誓願は無明長夜のおほきなるともしびなり、なんぞ智慧のまなこくらしとかなしまんや」(尊号真像銘文)と教えてくださいます。
他の人の心をすなおに受けとらず、自分の思いに閉じこもっている私たちはまるで闇の中に身をおくようなものです。そんな私たちの内外を残らず照らしてくださる阿弥陀如来のはたらきが光にたとえられているのです。
この阿弥陀如来の素晴らしいはたらきを一つの言葉では説明しきれませんから、十二の光として説かれるのです。
その十二の阿弥陀如来のはたらきの中では、何といっても「無礙」ということがその中心になります。なぜ「無礙」かといいますと、親鸞聖人は、
詮ずる所は、無礙光仏とまふしまいらせ候ふことを
本とさせたまふべく候、無礙光仏はよろづのもののあさましき
わるき事には障り無くたすけさせたまわん料(ため)に
無礙光仏と申すと知らせたまふべく候
とあきらかにしてくださいました。
ですから、私たちは自分のあさましさ、わるさを卑下せずに、
阿弥陀如来の間違いのないお心を聞かせていただくひとつなのです。