信ありという人が

「お念仏をよろこんでいる人のあの姿をみたら、念仏の教えが信じられなくなりました」とか、「あの先生のあのような話を聞くと、阿弥陀如来がどういう方かわからなくなった」という言葉をよく耳にします。

 いかにも、念仏が信じられないのも、阿弥陀如来を疑うのも、みんな他の人のせいであると言わんばかりです。「あの人の姿がどうの」、「あの先生の言い方がどうの」ということぐらいで、すぐに信じられなくなったり、疑いがでるというのは日頃の聴聞がいかにうわついたもので、常によろこびがいかに身につかないものであったか、という証拠でしかありません。

 人間というものは、どこまでいっても自分の非を素直に認めることはないようです。

自分にとって都合の悪いことは、それが自分の内面のことであっても、他の人のせいにするのです。いや、ただ人のせいにするだけならまだしも、他の人を批判し、攻撃さえします。なんと悲しいあり方でしょうか。

 晩年の親鸞聖人にもっとも悲しい思いをさせた出来事は、長子善鸞さまの問題であったと思います。

 聖人に代わって関東に行かれた善鸞が、父聖人の名で、聖人のいわれもしないことをいいふらしたのです。関東の念仏者の中には動揺した人も多くいます。そして、善鸞さまを責め、中には親鸞聖人を非難する人もあったでしょう。

 親鸞聖人は勿論、自らの責任を強く感じられ、善鸞さまのやられたことも許されませんでしたが、自らの信を問い直すこともなく、いつまでも、誰がどうのと他人事にしている人に、

  年ごろ信ありと仰せられあうて候ひける人びとは皆そらごとにて

  候ひけりと聞え候、あさましく候、あさましく候

 

と厳しくその間違いを指摘されました。

 他の人の言葉に惑わされるのは、自らの信がいかにあやふやであったかということにほかならないのです。