み教えを熱心に聞いてくださる人の中から、ときどき「お昼のテレビ番組を見られたことがありますか。霊だとか、占いの話のない日がありませんよ。どれほど先生方が正しい教えをと、力を入れてくださっても、みんなの人はテレビの方についていきます。だから、テレビを何とかしないと、み教えはひろまりません」となげきの声を聞きます。

 また、しばしば「このあたりは他宗派や他宗派が多くて、純粋の浄土真宗を伝えるのがむつかしい」とグチをこぼされる住職さんに会います。

 これらの言葉に出会うたびに、私の脳裡に浮かぶのは、長子善鸞さまが異義をとなえておられることを知らされたときの親鸞聖人のお手紙です。すなわち、

 

 慈信坊(善鸞さま)の下りて「わが聞きたる法文こそまことにてあれ、日頃の念仏は皆いたづらごとなり」と候へばとて、大部の中太郎の方のひとは九十なん人とかや、みな慈信坊の方へと中太郎入道を棄てたるとかや、聞き候、如何なるやうにて然様には候ふぞ、詮ずるところ信心の定らざりけると聞き候

 

というお手紙です。

 親鸞聖人に代わって関東に行かれた善鸞さまが、こともあろうに、親鸞聖人がいわれなかったことを、いかにも親鸞聖人の言葉のように伝えたのです。

 純朴に親鸞聖人の説かれるところを聞いて、念仏をよろこんでいた人たちの中に戸惑いというか、混乱がおこりました。そして、とうとう中太郎の入道のもとで念仏をよろこんでいた人たち、九十数人が善鸞さまのところに走ったのです。

どうしてこうなったのか、親鸞聖人は「詮ずるところ信心の定まらざりける」ことが第一の理由であるといわれたのです。

 テレビにも問題があり、他宗教、他宗派の多い中での伝道のむつかしさもわかりますが、一番問題なのは「信心の定まら」ないところにあるのです。












◇ テレビが悪いのか