『どこかおかしい日本語』という本がよく売れているそうです。こういう本がよく売れること事態が、どこかおかしいのですが、仏教の言葉は、どこかおかしいどころか、まったく違った意味で使われることが多いのです。
仏教のもっとも基本的な言葉の一つであります「縁起」という言葉にも、そのことがいえます。「縁起」といいますと、現在では、「縁起がいい」「縁起がわるい」とか、「縁起をかつぐ」「縁起もの」というような使い方をされます。「縁起」という言葉には、本来そのような意味は全くないのです。
「縁起」とは、「いのち」の相関性をあきらかにしてくださった言葉なのです。すなわち、「どのような『いのち』であろうと単独では存在しない」という真理をあらわす言葉なのです。
私たちの先人は、「縁起」という深い意味をもつ言葉を「もちつもたれつ」という言葉で、日常語にしてきました。
「いのちはもちつもたれつ」だから、自分が本当にかわいいのなら、周りの人を大切にしましょうという心がそこにはありました。ところが、今日では、この「もちつもたれつ」の言葉がほとんど死語になり、変わって、「関係ない」という言葉を頻繁に聞くようになりました。「あれは隣の人のこと、私には関係ない」、「あれは外国のこと、私たちの国には関係ない」というようなありさまです。
「私には関係ない、関係ない」といっている間に、自分ひとりの小さな殻の中に閉じこもり、孤立し、淋しい人生になっていくのです。
お念仏申すにしても「他人は関係ない私ひとりが」の思いがありましたら、どこかおかしいと思います。親鸞聖人は、
念仏まをさん人々は、わが御身の料は思召さずとも、朝家の御ため
国民のために念仏をまをし合わせたまひさふらはばめでたう候ふべし
と関東の同行にお手紙されています。