私たちは、知らず知らずのうちに、身で感じることよりも、頭で知ったことの方を優先するようになっています。ですから、み教えに遇うにしても、まず頭で理解して、理解ができたら身で行ってみようという風潮が強いようです。昔は反対で、身にかけて行ったことの方に意義を見出し、頭での理解を軽視する傾向が強かったようです。
こんなことがあって、親鸞聖人当時から、阿弥陀如来のお心をしっかり受けとめる信心こそが大切であるという考えの人と、一回でも多くの身にかけてお念仏させて頂くことが大切であると主張する人がいたようです。親鸞聖人は、
「念仏往生の本願」とこそ仰せられて候へば
「多く申さんも一念、一称も往生すべし」とこそ
承りて候へ、「かならず一念ばかりにて往生す」と
いひて「多念をせんは往生すまじき」と申すこと
ゆめゆめあるまじきことなり
とお手紙に書き残してくださいました。身にかけて行ってこそ本当に理解することもできるのでしょうし、本当にその意味を理解してこそ身にかけて行ずることもできるのでしょう。どちらかに偏るとおかしいのです。
「一念ばかりにて往生す」とは、「阿弥陀如来のお心を理解するだけで、ということですし、「多念をせん」とは「一返でも多く念仏申す」ということです。このどちらかに偏ることの間違いを教えてくださったのです。
「理解できたらお念仏する」と頑張るならば、「泳げるようになったら水に入る」というのと同じであり、「なんでもいいから一返でも多く念仏すべきだ」と主張するならば、「水に飛び込みさえすれば何とかなる」というのと変わりません。
念仏申すとは、阿弥陀如来のお心を頂くことであり、阿弥陀如来のお心を頂くとは念仏申すことなのです。理解と体験、身と頭が一つになって、はじめて本当の人生がはじまるのです。