◇ 義なきを 義とす

 「聴聞してもなかなかよろこべません」とか、「お仏壇の前に座っても、心はなかなか如来さまの方を向きません」とか、また、「念仏していても気が散って困ります」というお尋ねをよく受けます。このようなお尋ねをしてくださる人の後の言葉は決まって「これでいいのでしょうか」という言葉です。

 私は「それではいけない」とはいいませんが、「それでいい」と絶対に答えないようにしています。なぜかといいますと、「それでいい」といいますと、尋ねられた人は、「これでよかったのか」と、その場に胡坐をかいてしまわれるからです。また、「これではいけない」といえば、「よろこべるようにならねば」、「心が如来さまの方を向かねば」、「雑念の入らないようにしなくては」と、きっとかたくなってしまわれるでしょう。

 また、「よろこべるようにならねば」と力を入れたら、「よろこべる」ようになり、「心を如来の方に」と努力すれば、「心が如来の方を向く」ようになり、「雑念の入らないように」と注意していれば、「雑念が入らないようになる」というような私たちではありません。そんなに簡単に自分の思うように自分が動くのなら、阿弥陀如来のご苦労はいらなかったでしょう。

 思い通りに動いてくれない身と心をかかえてのたうちまわる私たちに、「どんな時でもあなたを捨てることのない私がいるのだから、これでいいのか、これで悪いのかという思いを捨て、私をよりどころにやれることを力いっぱい生きよ」という阿弥陀如来のお心がなによりありがたいのです。そこのところを親鸞聖人は、

 

 弥陀の本願を信じ候ひぬる上には義なきを義とすとこそ

 大師聖人(法然上人)の仰にて候へ

 

と教えてくださいました。

 自分で自分のよしあしを言わないというのが本願を信じるということなのです。