◇ 詮ずるところは信心

 私たちは何かに失敗したり、何かに躓いたとき、必ずといっていいほど「あの人があのとき、必ずといっていいほど「あの人があの時ああいったからこうなった」、「誰々がその時こう言わなかったからこうはならなかった」といいます。

 自分の失敗や躓きの理由を他の人の言葉のせいにしたり、まわりの人の責任にしますが、

本当はそうではないのです。あの人が何をいっても、誰が何を言わなくても、自分自身のうちにしっかりしたものがあれば、どうこう言うことはないのです。

 それが他の人の言葉や、まわりの人の態度に影響されるということは、自分自身にしっかりしたものがなかったということです。

 ですから、失敗や躓きも他の人のせいにするのでなく、失敗や躓きを通して、自分自身にしっかりしたものがなかったことを反省すべきです。

 宗教においても同じです。「あの人がああいうから迷った」「この人がどういうからフラフラした」という人がいますが、結局自分自身がしっかりお聞かせにあずかっていないから迷ったり、フラフラしたりするのです。

 誰がなんといおうと、自らがみ教えをしっかり聞き、阿弥陀如来のお心に遇っていたら、迷うことも、フラフラすることもないのです。善鸞さまの問題があった時、親鸞聖人は、

 

 慈信坊が申すことによりて人々の日頃の

 信のたじろきあうて在しまし候ふも、

 詮ずると所は人びとの信心の真実ならぬ

 ことの現れて候、よきことにて候

 

 とまでいわれ、さらに、

 

 日頃の様々の御文どもを書き持ちて在しましあうて

 あうて候ふ甲斐もなく覚え候、『唯信鈔』様々の御文

 どもは今は詮なくなりて候ふと覚え候ふ法門はみな

 詮なくなりて候ふなり

 

 と悲しまれています。