「いつまでも他力をあてにしてはいけない。人間やはり自力でなければ」というような言葉が、浄土真宗にあまりご縁のない方の口から聞かれます。このようなことをいわれるのは、他力という言葉を誤解しておられることはいうまでもありませんが、自力という言葉の意味もよくわかっておられないからです。
親鸞聖人は、
まず自力とまむすことは、行者の各々の縁に随ひて、餘の仏号を稱念し、餘の善根を修業してわが身をたのみ、わが計の心を以って身・口・意の乱心を繕ひ、めでたう為なして浄土へ往生せんと思ふを自力と申すなり
と、自力の本当の意味を明らかにしてくださいます。すなわち、自力とは、ただ努力するとか頑張るという意味ではなく、自分の身体を頼りにし、自分の考えたことを唯一のよりどころに、自分の行ったことを力として、どのような困難にぶつかろうとも、
どのような情況になろうとも、また、どのような誘惑があろうとも、姿勢を正し、口をたしなみ、意を強くもって、乱れそうになる心をしっかりとおさえて、ただ一すじに、
この人生を前進し、仏の世界にまで生ききって行くという生き方であります。
自力は、多くの人が考えているよりも、もっともっと素晴らしい生き方なのです。
しかし、自力がいくら素晴らしい生き方でありましても、自らがそのように生きることができなければ、それは何の価値もありません。
すこし困難にぶつかると、やれ神さま仏さまと走り回るようなものに自力は無縁です。
自分のおかれた情況がわるくなると、すぐに何かがついたのでは、何かがたたったのでは、と他のせいにするようでは、自力はとうていかないません。また、すぐに誘惑にのって右往左往するようでは、自力は問題になりません。 自力とは、精神・肉体ともに、強い強い人の生きる道であります。
ほとんどの人が、他力とは努力しないこと、他人の力をあてにすることと思っておられるようです。なかには「親鸞の他力本願では何ごともだめだ」というような発言さえする人もいます。
親鸞聖人の他力の教えが「自分は努力せずに、他人の力をあてにして生きていきなさい」というような教えなら、七百年もつづいたり、全世界にひろがるはずがありません。
親鸞聖人は
他力と申すことは、弥陀如来の御誓のなかの選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり
と、他力ということを明らかにしてくださいます。
すなわち、他力とは「どんなことがあってもあなたを見捨てることができない」と誓ってくださった阿弥陀如来の四十八の願いの中の第十八番目の願に誓われた、阿弥陀如来のお心に信順し、阿弥陀如来の「どんなときでも私がいます。つまらないことに気をとられず精一ぱい生きてごらん」とはげまし、支えてくださる南無阿弥陀仏のお声を聞き、よろこんで力いっぱい生きる生き方であります。
それは、他人の力をあてにして、他人の顔色ばかり見て生きるという生き方でもなければ、なるべく横着をして、努力せずに生きようというような生き方でもありません。 完全なことはできなくても、末通ったことはできなくても、今、できることだけでも精一ぱいやらせて頂こう、私のうしろには「やれるだけやってごらん、私がいるよ」と私をあたたかく励まし、ささえてくださる阿弥陀如来がいてくださるのだからという力強い生き方が他力です。
立派なことができないと卑下することもなければ、また、自分はこれだけのことをやったと誇ることもない生き方、それが阿弥陀如来のお心に遇ったものの他力の人生であります。