私たちをおすくいくださる南無阿弥陀仏を誓ってくださった願は、四十八ある阿弥陀如来のご本願の中の第十七番目の願で、その内容は、「十方世界の数かぎりない諸仏がそろって阿弥陀如来の名をほめる」ということだそうですが、なぜ阿弥陀如来は自ら「みんなの人をもらさずすくう私がここにいるよ」と名のらずに、諸仏がほめるというまわりくどいことをされたのですか、と尋ねてくださった人がいます。
これはかなり長くみ教えを聞いた人のお尋ねですが、大切なお尋ねですからみなさんと一緒に考えてみたいと思います。確かに、諸仏にほめてもらうというようなまわりくどいことをしなくても、阿弥陀如来自ら「あなたを捨てることのできない私がここにいます」と名のられればいいことですが、私たちは、素直に「あなたをすくう」と、自ら名のられる阿弥陀如来のお声を素直に受け取るでしょうか。
素直に阿弥陀如来のお声を受け取る私たちなら、阿弥陀如来はこのようなまわりくどいことをなさらなかったでしょう。悲しいことに、私たちには如来さまのお言葉も、人の言葉と同じように素直に受け取ることができません。特に自称○○には何度も「ダマサレタ」「ウラギラレタ」という思いがありますから、素直に受け入れられません。
ところが、疑い深い私たちでも「そうかな」と素直に受け入れることがあるのです。それはどういう時かといいますと、例えば「医者がほめる医者なら間違いない」という具合に、同じ立場の人からほめられる人なら「間違いないだろう」と比較的素直に受け入れます。
そんな私たちの性根を見抜かれた阿弥陀如来は、諸仏の口をかりて、私たちに自らの心を受けとらそうとなさったのです。そこのところを親鸞聖人は、
「諸仏称名の願」と申し「諸仏咨嗟の願」と申し候ふなるは
十方衆生を勧めん為と聞えたり、又十方衆生の疑心を止めん
料と(ため)と聞えて候
とよろこばれたのです。