◇ 信心定まるということについて

「信心を頂くということはどういうことでしょうか。私はまだ頂いていないように思うのですが、どうしたら信心を頂くことが出来るのでしょうか。」という問いは、真剣に聴聞される人の共通の問題であります。

 親鸞聖人は

 

 信心の定まると申すは摂取に興かる時にて候ふなり

 

と、信心を頂くということについて明らかにして下さっています。すなわち、信心を頂くといっても、何か物をもらうようなことではないのです。「どんなことがあってもあなたを見捨てることが出来ない」と、私をしっかり抱きしめて、離す事のない阿弥陀如来のお心に遇い、今、現に、阿弥陀如来のあたたかいみ胸の中で生きる自分であったと目覚めさせて頂くのが、信心定まるということであります。

 この阿弥陀如来のあたたかいみ胸に抱かれて、頂いた生命を力いっぱい行き抜かせて頂くのが信心の生活であります。

他人の顔色が気になり、迷信、俗信に惑わされやすい私たちですが、阿弥陀如来の「他人がどんな目で見ようが、日がよかろうが悪かろうが、何が付こうが、たたろうが、私がここにいます。よそ見せず、元気を出して、一筋に、頂いた生命を精一杯生きなさい」と微笑んでくださる温かい眼差しに励まされ、迷わず、よそ見せず、力いっぱいこの人生を生き抜かせて頂くのです。

 こんな人生が阿弥陀如来のみ胸に抱かれていることに目覚めるという信心によって恵まれるのです。

 では、自分中心の小さな殻の中にいる私が、どうして阿弥陀如来のみ胸に抱かれていることに目覚めることが出来るのでしょうか。

 このことについても親鸞聖人は、

 

 まことの信心の定まることは釈迦・弥陀の御はからひと見えて候

 

と教えて下さるのです。ですから、私たちはただ一すじにみ教えを聞かせて頂くばかりなのです。