「どの宗教も『いのり』ということをいいますが、どうして浄土真宗では『いのり』ということをいわないのですか」というおたずねをよく受けます。
浄土真宗では「いのり」という言葉を全く使わないということではありません。親鸞聖人にも「いのり」をすすめてくださる言葉があります。
親鸞聖人はお手紙の中で、関東におられても門弟の人たちに、
それにつけても念仏を深くたのみて世のいのりに心に入れて申し合わせたまふべしとぞおぼえ候
といわれています。すなわち、「どんなことがあっても私はあなたを見捨てません」と、私たちをささえてくださるお念仏をよりどころに、私たちの住むこの世を、少しでもよい世の中にしていこうということを、常に心にとどめることをお互いに申し合わせてくださればと思います、といわれています。
この世を生き、この世に住む限り、この世がよくなることを常に念願し、努力していくことが念仏申すもののつとめです。ところが、親鸞聖人は、
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる (高僧和讃)
というお言葉もあります。すなわち、目前の自分だけの幸せを願うことは正しい生き方ではありません。そのような人は、千人に一人も浄土に生まれることはないといわれるのです。
私たちが「いのり」という言葉をつかうとき、どちらかといいますと、自分だけの幸せをいのるということになり、この世をすこしでもよくしていこうという「いのり」にならないことが多いのです。自分だけの幸せをいのるということになりがちな私たちですから、「いのり」という言葉を安易に使わないのです。