◇ 教えは誰のために

 私たちは、ややもしますと、あの人はどうした、この人がどうのと、他人のことばかりいって、自分がお留守になりがちっであります。

 自分の家の障子の破れ目から、隣の障子のやぶれをながめて笑うと言う話がありますが、他人事ではありません。

 自分のことを棚にあげ、ついつい他人のことの方に目がいきやすい私たちは、み教えを聞いていても自分のこととしか聞かず、他人事として聞いてしまう傾向があります。

 こんな話ならあの人に聞かせればよかった。あの先生の話は誰々が聞けばピッタリきただろう。というように、自分を素通りして、あの人が聞けば、この人が聞けばと、他人のことになってしまいます。

 確かに、あの人に聞いてもらうことも大切でしょう。この人に聞いてもらうことも必要でしょう。しかし、誰よりも一番聞かなければならないのは、他人のことばかりウンヌンして、自らをお留守にしている私自身であります。

 親鸞聖人のお弟子の慶信房は

 

 聞き見候ふに飽かぬ浄土の聖教も、知識に遇ひまゐらせんと

 思はん事も摂取不捨も信も念仏も人のためと覚えられず候

 

 とお手紙に書かれています。すなわち、どれほど聞いても、いくど拝読しても、あくことのない浄土真宗のみ教えも、浄土真宗のお書物も、また素晴らしい人生の師に遇いたいと思うことも、「どんなことがあってもあなたを見捨てることができない」とわたしにかかりきって下さる阿弥陀如来のお心も、その阿弥陀如来のお心に遇ったよろこびも、南無阿弥陀仏の念仏も、全てが他の人のためとは思えない、と慶信房はお手紙に書かれたのです。

 全てがこの私一人のためであったと頂く時、私の世界は大きく広がります。

その大きく広がった世界の真っただ中を生きるところに、み教えを聞く喜びがあるのです。