私たちはややもすると、「自分は何にもできない凡夫」と、自らを上手にあまやかして胡座をかいています。確かに、完全なこと、末通ったことはできませんが、一人の人間がその気になれば、かなりのことがやれるはずで、何にもできないというようなことはありません。
親鸞聖人は意思の弱い、見通しのきかない、自分中心の凡夫がただ一すじにこの人生を生きていく道をあきらかにしてくださるとともに、凡夫が「如来と等し」とたたえられる身となる人生を教えてくださいました。どうして、凡夫が「如来と等し」身となるのかといいますと、親鸞聖人は、
浄土の真実信心の人はこの身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心は己に如来と等ければ「如来と等し」と申すこともあるべし
と教えてくださいます。「心は己に如来に等し」とは、善導大師のお言葉をかりれば「信心の人はその心すでに常に浄土に居す」ということであります。この「居す」ということについて、親鸞聖人は
「居す」というは「浄土に信心の人の心つねにゐたり」という意なり
とご解釈くださいます。すなわち、「こころは己に如来と等し」とは、阿弥陀如来の本願をよりどころに生きる道は、どのような場合でも、心は常に浄土を念じ、浄土をよりどころにして、諸仏如来と同じように安定しているということです。
多くの人は、順境にあれば、心は欲望のとりこなり、反対に、逆境になると思うようにならないと怒りの中に心を見失っていきます。
信心の人は、人生思うようになるからと有頂天になることもなく、また思うようにならないからとヤケになることもなく、阿弥陀如来の本願に信順し、常に浄土を念じて一すじに自らの人生を生きるのです。そこに「如来と等し」とたたえられる人生が開けてくるのです。
最近、ある政治家が、ことにあたるのに自然体でのぞむというようなことをいっていました。力まず、気ばらず、できることはできる、できないことはできないと、あるがままの姿でことにあたるというような意味でしょうか。
親鸞聖人は自然という字を「じねん」と読み、他力の教えの極致をあらわす意味として使われました。
すなわち、親鸞聖人は
「自然」といふは「自」は「おのづから」といふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは「しからしむ」といふことばなり、「しからしむ」といふは、行者の計にあらず、如来の誓にてあるが故に「法爾」といふはこの如来の御誓なるが故に然らしむるを「法爾」といふなり
と、味わわれているのです。私たちの人生には右にしようか、左にしようか。やろうか、やるまいか。と、とまどうことが幾度もあります。そういうとき、私たちは、何をよりどころにして決断し、人生の前進をはかっているのでしょうか。
何かあるたびに、他人の顔色や言葉を気にして、自分の進んでいく道を決める人もいます。また、占いによって、自分の人生の方向を決める人もいます。それは結局、なるべく失敗しないように、上手に、楽に、この人生をと、いろいろとはからうのは人間として当然のことでしょうが、そこに大きな落とし穴があるのです。
上手に、楽にと考えるより、頂いた生命を精一ぱい生ききるということを考える方が、本当は大切ではないでしょうか。「どんなことがあっても私がいます。力一ぱい生きてごらん」と、はげましてくださる阿弥陀如来の本願にささえられ、下手な考えや、小細工をせずに、精一ぱい生きるとき、「おのずから」頂いた生命を生ききる人生が開けるのです。
私たちに頂いた生命を生ききる人生をあたえてくださる阿弥陀如来の本願のはたらきが親鸞聖人のいわれる「自然」であります。