私たちは自分の気に入らないことを言う人を嫌い、自分の気に入ったことをいってくれる人を好むものです。いわんや、自分のやっていることを邪魔する人は、鬼のように思うものです。
特に、自分は正しいことをしていると思っているときには、そのような思いを強くもつものです。
ですから、この道しかないと聞き開いて念仏をよろこんでいるのを妨げる人に会うと、なんとつまらない人だろうと排斥したり、時には真向から非難したくなります。ところが親鸞聖人は、
念仏せん人は、かの妨をなさん人をば憐愍をなし
不便に思うて念仏をも懇に申して妨なさんを
助けさせたまふべしとこそ古き人は申され候
ひしか、よくよく御たづねあるべきことなり
と書き示してくださっています。
確かに「いのち」の本当の基盤をもたない人は、確かな「いのち」の基盤、すなわち「どんなことがあっても私がいます」のお念仏をよりどころに力強く
生きている人が癪にさわっておもしろくないのでしょう。自分と違う生き方、それも自信に満ちた生き方の人を見ると、そう生きれないものはおもしろくないと思います。
自分の人生に自信がもてず、右往左往している人が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と念仏申しながら、一歩一歩しっかりと大地をふみしめて生きている姿を見た時、横やりを入れたくなる気持もわからないでもありません。
「いのち」の本当の基盤をもたずに、精いっぱい生きる念仏者をねたんで、妨の一つもせずにおれない人のことが本当にわかれば、つまらない人と排斥したり、いわんや非難などできるはずがありません。
そこには、人のよろこびを素直によろこべず、妨をなさずにおれない人の心情を思いやり、一時も早く「いのち」の本当の基盤に出会ってくださるのを願わずにはおれません。それが念仏者として生きる姿です。