同じお釈迦さまの教えでありながら、現在、仏教と名のつくものを一望しますと、よくこれだけちがうものだと思うのは私だけでしょうか。
「災難にあうのは何か悪い霊がたたっているからです。その悪霊が成仏しないかぎり、あなたが幸せになることはありません」と、半分脅迫じみた宣伝をして、信者というより、客を集めている仏教系の新宗教があるかと思えば、水子供養で息をふきかえした名刹寺院もあります。
このような現在の仏教のあり方を見るにつけても、釈尊のみ教えに生きる真の仏教徒はもういないのではないかという思いをもたれる人も多いと思います。
親鸞聖人は
この信心の人を『真の仏弟子』といへり
と述べられ、「真の仏弟子」とは、「この信心の人」であると教えてくださいました。「この信心の人」とは、「釈迦一仏のみことを信受」する「本願念仏の衆生」であります。すなわち、お釈迦さまのおすすめくださる「どんなことがあってもあなたを見捨てることがない」という阿弥陀如来のご本願一つをよりどころに、念仏申しながら、この苦難の人生を一すじに、力一ぱい生ききっていく人が「この信心の人」なのであります。
不幸が続いたり、人生が思うようにいかなくなると、何か頼るものはないかと、ワラにもすがる気持で、右往左往して迷いを深めるのが私たちです。
「この信心の人」とは、よい時も悪い時も、私を見捨てることのない阿弥陀如来がいてくださるのだから自分のできることだけは、精一杯やってこの人生をいきていこうと、一すじに生ききっている人であります。
親鸞聖人は
しかればこの信心の人を、釈迦如来は「わが親しき友なり」とよろこびまします
と真の仏弟子のあり方をあきらかにしてくださいました。
「宗教は大切なものだということはよくわかりますが、お互いに他宗・他派を中傷するすがたを見聞きすると、宗教を信じる気持ちにはなれません」といわれた人がいます。
私たちは、ややもすると「我が仏尊し」ということになって、その宗教の教えをよく知らないのに、他宗派の悪口をいったりします。いわんや、、反対に、他宗・他派から悪口などをいわれますと、その宗派を目のかたきにし、憎んだり、誹ったりします。
このことについて親鸞聖人は、
こも信心をうることは釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便によりたまはりたると知るべし、さかれば「諸仏の御教を謗を誹ることあるべからず、あはれみをなし、悲しむ情けをもつべし」とこそ聖人は仰言ありしか
と法然上人のお言葉を引いてご注意くださっています。すなわち、私たちが今、阿弥陀如来の本願一つをよりどころに生きる身になったのは、阿弥陀如来の私たちを呼びつづけてくださったおはたらき、お釈迦さまが八十年の生涯をかけてすすめてくださったおはたらきはもちろんのことでありますが、十方諸仏のいろいろなおはたらきがあったことをもよろこんで、諸仏の教えである他宗派を誹るというようなこと、また、それぞれの宗派の人が自ら信じる道をあゆんでおられるのを中傷するようなことがあってはならないとご注意くださるのです。
そして、さらに、念仏よろこぶ私たちを憎み、中傷するような人があっても、その人を憎み中傷することがあってはならないといわれるのです。
他の人の信じる教えを中傷せずにおられない人は不幸な人であります。そのような人にこそ、一時も早く真実のみ教えにあって、他宗・他派を中傷しなくてもいい人になってもらうように、心がけるべきであると親鸞聖人は教えてくださるのです。