「お寺のお参りが減った。昔は縁側までいっぱいであった」という言葉を耳にするようになってからどのくらいになるでしょうか。そんな言葉を耳にするにつけても、気になるのは、そうなった原因を考える私たちの姿勢です。
一体私たちは、寺の参詣の減った原因をどのように考えてきたのでしょうか。
自らに問題ありと、その原因を自らの内に見てきたでしょうか。世の中が悪くなった、寺の建て方が現代人に合わない、布教使の話に問題がある、と他に責任を押しつけて、自らのあり方、自らのみ教えの理解の浅さを省みることなしに、今日まできたのではないでしょうか。
そして、「他力ではいけない」等と仏教用語の誤用等があれば、鬼の首でも取ったように、世間の人は仏教が全くわかていないと、自分ひとりがわかっているような口ぶりや態度をとってきました。
仏教を滅ぼすのは、一体誰か。寺に参らない人か、仏教用語を誤用する人か、それとも建物か、世の中かといいますと、決してそうではないようです。
親鸞聖人は、
仏法をば破る人なし、仏法者の破るにたとへるには「師子の身中の蟲の
師子をくらぶが如し」と候へば、念仏者をば仏法者の破り礙げ候ふなり、
よくよく心得たまふべし
とあきらかにしてくださいました。
まず、私の生き方を見たときに、仏法を聞いてみようかと人が思うかどうか、
そのあたりから考え直してみる必要があると思います。
どうしてあんなに一つのことに真剣に取り組めるのだろうか。どこからあんな前向きの姿勢がでてくるのだろうか。やはり仏法を聞いている人はどこか違うなと周りの人が思うならば、みんなの人も仏教を一度聞いてみようと思うようになるに違いありません。
師子身中の蟲は、決して、よそにいるのではありませんか。