◇ 念仏が往生の因
「念仏によって浄土に往生する教えが浄土真宗ですといわれても、念仏・浄土・往生の意味がわからないので、どれほどやさしい教えだといわれても、浄土真宗に入れない」といわれる人がいます。私たち僧侶は、念仏も、浄土も、往生もわかったつもりで、先へ先へと話をすすめていきますので、このような
声がでるのでしょう。
親鸞聖人が教えてくださった念仏は、「如来のよび声」であるということです。
私が称える「ナモアミダブツ、ナモアミダブツ」の一声一声が、そのまま阿弥陀如来の「我よく汝を護らん」のよび声であると親鸞聖人は教えてくださいました。また、浄土とはすべての「いのち」がそれぞれの持味を輝かせて照らし合っている世界ということです。
そして、往生ということですが、この言葉は現代では「生き詰まる、難儀する」という意味で使われていますが、本来は「行き詰った人生が開けて、新しい人生がはじまる」ということです。
私たちは「儂が」「俺が」と小さな「我」の殻に閉じこもって、互いに非難したり、傷つけあって生きています。結局私たちは「儂が」「俺が」で行き詰って、それぞれのよさを発揮することもなく、互いに不満をかかえて日を送っています。ですから、この「儂が」「俺が」の殻から出ない限り、私たちの人生は前に進みません。
そんな私たちが「我よく汝を護らん」という私たちのはからいを超えた世界からのよび声に遇うことによってのみ、小さな殻から出ることができるのです。そして、他の「いのち」と連帯して生きる新しい人生がはじまるのです。
それで親鸞聖人は、
念仏往生の願は如来の往相廻向の正業・正因
なりと見えて候
と教えてくださったのです。
念仏こそが、阿弥陀如来が私たちに往生浄土の人生をあたえてくださる間違いのないはたらきであり、因であったのです。