◇ 認められなくとも

  私たちは、自分のやっていることをみんなの人に認めてほしい、正しく評価してほしいと願っています。ところが、現実にはなかなかそうはいきません。無視されたり、自分の思いと違った評価をされることの方が多いようです。

  いいかげんな気持ちでやっているときは認められなくとも、評価されなくてもしかたがありませんが、真剣に取り組んでいることを無視されたり、違った評価をされるとやりきれません。私たちは、なにかにつけ無視され、自分の思いと違った評価をされることが大嫌いです。

  ところが、そんな私たちが立場を変えて、他の人のやっていることを見るときどうでしょうか。他の人のやっていることの重要性を認め、それを正しく評価するでしょうか。

  無視され、違った評価を受けることが大嫌いな私たちが、他の人には自分の大嫌いなことをしているのではないでしょうか。

  それより、問題なのは、自分の行動なり、取り組みを認めてもらわないとうれしくない、自分の思い通りに評価されないとよろこべないという私たちの根性が問題なのです。

  誰が無視しようが、誰がどう評価しようが、自分のやるべきことをやれる限りやり抜いて、恵まれた「いのち」を燃焼させることこそが、私たちが生きる上で大切なのです。

  親鸞聖人の教えてくださったお念仏は「どんなときでも私がいます。まわりの評価を気にして一喜一憂することなく、自らの人生を精一杯生きなさい」とよびかけてくださる阿弥陀如来の声なのです。

  ですから、その素晴らしい念仏を誰がどのように評価しようと、そのようなことに動揺することはないのです。そのことを親鸞聖人は、

 

  この世の習いにて念仏を妨げんことは豫て仏の説きおかせたまひ

  候へば、驚き思召すべからず候

 

 と教えてくださいました。