「人間死んだら全ておしまいですよ」というようなことを言って、うそぶいている人でも、身近な人の死にあったり、死が自らの問題になってくると、そうも言っておれなくなります。
死んだ親や子を、死んだらおしまいとほっておける人はいないでしょう。特に普段「死んだらおしまい」などと、解かったようなことを言っている人ほど、何か自分の人生に良くないことが起こると「死んだ人が迷っている、苦しんでいる」と、迷いあるくものです。 また、死が自らに迫って来たことを感じる人が、「死んだらおしまい」などと、他人事のようなことを言っておれるでしょうか。「死にたくない」、「良いところに行きたい」と、ワラをもつかむ思いで、あやしげな宗教に入っていく人はすくなくありません。元気なときにこそ、自らの人生の方向をしっかりと考えておかなければなりません。
お浄土に生まれたければ、今から、お浄土に生まれるような人生を生きておかなければなりません。
「どう生きれば、お浄土に生まれることが出来るのですか。私たちのように、ろくでもないことばかりを考えたり、やったりの人間はダメでしょうね」という悲しげな声が聞こえてきそうです。
親鸞聖人は、阿弥陀如来にお任せすることによって、すべての人がお浄土に生まれることのできる道を明らかにして下さったのです。
往生は何事も何事も凡夫の計らいならず。如来の御誓にまかせればこそ
他力にては候へ。様々にはからひあうて候ふらん。をかくし候
と述べられ、つまらないはからいをやめて、「私がいるよ。あなたのことは引き受けます」といってくださる阿弥陀如来に、すべてをまかせて力一ぱい生ききるだけで、間違いなく浄土に生まれることのできる道、すなわち、他力の道を明らかにしてくださったのが親鸞聖人でありました。
◇ 五説について
「私たちの周りには、宗教と名のつくものがあまりにも沢山あって、どの宗教のいうことを聞いたら良いかわかりません。一体、誰の言うことを聞けばいいのですか」と、尋ねられた人があります。
確かに、この世の中には、自らを神と名乗って教えを説く人もおれば、神のおつげを取りつぐという人もいます。神のお告げならまだいいのですが、死んだ人の言葉を取り次いだり、しまいには、狸や狐のいうことまでとりついで、人間の生き方を指導している宗教もあります。
一体、誰のいうことを、と思われるのは当然であります。これらを分類しますと、結局五つの説に分類されます。
この五つの説について、親鸞聖人は、
一には仏説・二に聖弟子の説・三には天仙の説・四には鬼神の説・五には変化の説
であると教えてくださいます。すなわち、一には真実に目覚めた人、すなわち仏の説く教え。二には真実に目覚めた仏の弟子方が説かれる教え。三には不老長寿を求める仙人といわれるような人の説かれる教え。四には、神と名のつくさまざまなものや人の説く教え。五には、いろいろに姿を変えるものや、人の説く教えであるといわれるのです。
みなさんのまわりにある宗教のどれがどれにあたるかは、おおよそお解かりになることでしょう。
では、その中でどの教えを聞けばいいのかといいますと、親鸞聖人は
この五つのなかの仏説を用ひて上の四種をたのむべからず候
と、真実に目覚められた仏の説くところを聞き、他の教えを力にしてはいけないと教えてくださいます。そして、さらに
この「三部経」は釈迦如来の自説にてましますと知るべしとなり
と述べられ、阿弥陀如来の「どんなことがあっても、私たちをほっておくことができない」という本願を説かれた浄土の三部経こそ、私たちが聞かせて頂くべき教えであると明らかにしてくださいます。