私たち浄土真宗のお流れをくむものは、いろいろな教えの中から、親鸞聖人があきらかにしてくださったみ教えを、一番たしかなものと選びとったのです。
ですから、どうしていいか、何が本当かわからなくなったら、いつでも、親鸞聖人のお言葉に問い聞いていくべきでしょう。
親鸞聖人のお言葉は『浄土真宗聖典』として、一冊にまとめられています。本願寺では、みんなの人にもっていただいて、生活の場で、折りにふれ読んでいただくために、読みやすい『浄土真宗聖典(注釈版)』を編さんし、皆様におすすめしています。浄土真宗にご縁のある人、また、親鸞聖人のみ教えを聞こうとする人は、ぜひ、座右にこの『浄土真宗聖典(注釈版)』を備え、そのお言葉に学ぶべきでしょう。しかし、普段『聖典』を手にしたことのない人が、急にページを開いても、どこに何がかいてあるのかわかりません。ですから、キリスト教の人が『聖書』を座右にし、折りにふれて読んでおられるように、私たちも常日頃から『浄土真宗聖典(注釈版)』座右にし、折りにふれて、そのお言葉を拝読させていただく習慣を身につけることが大切です。
『聖典』の中には、読めばすぐわかるお言葉もありますが、古い言葉、漢字、仏教の専門用語が多く出てきますから、何度くり返しても意味のとれない言葉があると思います。そのような言葉に出あったら、自分でいろいろ味わってみることも大切ですが、ぜひ、住職さんなり、もよりの浄土真宗のお寺を訪ねて指導をうけてください。自分の考えだけで『聖典』のお言葉を解釈しますと、ひとりよがりな解釈になり、本来の意味と真反対の意味になってしまうことさえあります。
先日も、ある会合でお会いした壮年の人は、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という『歎異抄』のお言葉を、「親鸞聖人は、只の念仏さえとなえていれば、何もしなくともすくわれるといわれた」と受けとって、「親鸞聖人のようなことをいっていては、人間がますます横着になってダメになる」と、強い語調で話されました。
親鸞聖人は、決して「無料のお念仏さえしていれば、何もしなくともすくわれる、こんな楽なことはない」と、よろこばれたわけではありません。「たすけまいらすべし」とは、恵まれた生命を力いっぱい生きたいとねがいながら、まわりの人の目や、迷信・俗信にまどわされ、また自らの過去のあやまちや未来の不安におののき、その上、自らのむさぼりやいかりの心に翻弄されて日を送っているものが、そのようなあり方から解き放たれて、ありったけの力を出しきって生きる身にしていただくということです。
また、「ただ念仏して」といいましても、念仏さえとなえていればということではありません。自らとなえるお念仏を「どんなことがあっても、私は、あなたを見捨てません。力いっぱい生きなさい」と、励ましつづけてくださる阿弥陀如来のお声と聞かせていただくことです。
阿弥陀如来のお声(それは、自らとなえるお念仏ですが)に励まされて、自らの人生にぶつかっていくとき、よろずの束縛から解き放たれて、恵まれた生命を力いっぱい生きる人生が開けるのです。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」とは、このようなお言葉なのです。このお言葉のどこにも、横着してもいいという意味などありません。それどころか、力いっぱい生きる人生を開いてくださるお言葉なのです。このような真反対の受けとり方が、ひとりよがりの解釈から生まれてくるのです。ご住職さんのご指導を受けながら、『浄土真宗聖典』を生きるよりどころとする−これが、浄土真宗のみ教えを聞くものの本当のあり方です。
< 五十五の問い >
1 | み教えはどう聞くべきか | 2 | 真宗用語の正しい意味 |
3 | アミダさまは男か女か | 4 | どのお経をいつ読むのですか |
5 | なぜ般若心経を読まないのですか | 6 | 第十八願とは |
7 | 第十八願「三心」の意味 | 8 | 二河白道と私の人生 |
9 | 社会の問題とご信心 | 10 | お浄土と往還の回向 |
11 | 浄土真宗の救い | 12 | 悪人は救われるのか |
13 | なにが浄土に往くのか | 14 | 供養すれば成仏するのか |
15 | 「祈る」と「念じる」の違いは | 16 | 真俗二諦論とは |
17 | 女は業が深いのか | 18 | 「五障・三従の身」とは |
19 | お念仏で生きるとは | 20 | 恐れなき人生を生きる |
21 | 念仏中心の生活とは | 22 | 念仏者の家庭生活 |
23 | 報恩講はどういう仏事 | 24 | お葬式の真の意義 |
25 | 寄付と救いの関係は | 26 | 仏壇が二つある |
27 | 水子供養と先祖供養 | 28 | 水子のたたりがこわい |
29 | 流産した子は今どこに | 30 | 車の「御守り」とは |
31 | 女の節供、男の節供 | 32 | いじめと非行について |
33 | 入試に失敗した子に | 34 | 持病に苦しむ子に |
35 | 宗門の基幹運動 | 36 | 念仏の声を世界に、子や孫に |
37 | 「いちにん」と「われら」 | 38 | 差別と同朋運動 |
39 | なぜ靖国神社に反対か | 40 | ビハーラとは何か |
41 | 「ダーナ」の本当の意味 | 42 | 会員の高齢化と後継者 |
43 | 真宗十派について | 44 | お西さん、お東さん |
45 | 阿弥陀堂と御影堂 | 46 |
大切な真宗用語と、その誤用について教えてください。
法話を聞かれて、一番戸惑われるのは、言葉の難しさだと思います。仏教用語がわからないために、お話のポイント、ポイントがわからなくて、お話全体がわからなかったというようなことも、よく耳にします。
また、聞き覚えのある仏教用語も、普段理解している意味ではないようだし、せっかくお話を聞かせてもらっても、理解できないとこぼされる方もあります。
私は、現在一般に使われている仏教用語は、全部本来の意味と違って使われていると言ってもいいと思います。
そこで、教団としても、このような問題をそのままにして伝道しても、結果としては、長い間聴聞された方ならいざ知らず、せっかくお話を聞きに来てくださった人を無視しているようなことになるのではないか。話す者の一人よがりのお話や、自己満足にしかならないのではないかということで、「法話を聞くための基本用語」を、十二選びました。そこでは、幼児にどう話せばよいのか、少年にどう語るのか、青年・壮年にはどう伝えるかを明示しました。
どこに、そのようなことが明示されているかといいますと、各寺には数年前の『宗報』で「生涯聞法体系」としてお届けしました。門信徒の方にもぜひ知って頂かねばと思いまして、昭和六十年の三月に『私の生涯聞法・悔いのない人生を』という本を、本願寺出版社から出していただきました。そしてなるべく安価に(五百円)と考えました。
その本を読んでいただくと、お尋ねの件は解決いたしますので、ぜひお読みいただきたいと思いますが、ここでは、特に誤用の多い「仏」・「回向」・「他力」・ 「往生」という大切な言葉について、その誤用と本当の意味について述べたいと思います。
まず「仏」ということですが、本来は「仏陀」の「仏」ですから「ブツ」と読むのが本当でしょうが、現在では「ホトケ」と読み「死者」の意味で使われることが多いようです。ですから、各家庭の仏壇も、死者を祀る場所のようになっていますが、本来「仏陀」とは覚者ということで、真実に目覚めた方ということなのです。ところが、後には、「仏陀」が目覚めた「真実のもの」をも、「仏」というようになりました。私たちに目覚めを促してくださった「真実そのもの」を、「仏」とあがめるのです。真実に目覚めた方としては釈尊、釈尊はじめ、私たちに目覚めを促してくださる方が阿弥陀仏です。
そこで、生涯聞法の基本用語では、阿弥陀如来について「限りない生命の世界から、つねに私を喚びつづけてくださっているのが阿弥陀如来さまです」
と、解説されています。
つぎに、「回向」について考えてみますと、真宗以外の宗教では、私たちが、死者のために読経することを、「回向」と言うようです。浄土真宗では、阿弥陀如来が私たちをおすくいくださる「おはたらき」を、「回向」というのです。
親鸞聖人は、
「回向」は、本願の名号をもて、十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。
(『一念多念文意』)
と、明らかにしてくださいました。また、蓮如上人は読経の意味について「他宗には勤をもして回向するなり、御一流には他力信心をよく知れ」とのおこころを頂戴するのです、と教えてくださいました。
基本用語の少年期のところには、「回向」について、「阿弥陀さまは『どんなことがあっても、すべてのものをみすてることができない』と誓われ、私たちに南無阿弥陀仏を与えてくださいます」とあります。
「他力」についいてですが、これほど誤用されている仏教用語はありません。新聞等にも頻繁に見られます。「他の人なり、他の国によりかかって、自らは何の努力もしないこと」というような意味で使われるのです。
「他力」が、そのような意味なら、浄土真宗が七百年以上も続くはずがありませんし、世界にひろまるはずがありません。親鸞聖人は、
「他力」と言うは、如来の本願力なり
(『顕浄土真実教行証分類』)
といわれ、「他力」の「他」が、他人や他の国ということではなく、阿弥陀如来であることを明かしてくださいましたし、「他力」の「力」が、「どんなことがあっても私たちを見捨てることがない」という本願のおはたらき(力)であることを教えてくださいました。
そこで、基本用語の少年期に、「他力」について、「『いっしょうけんめい頑張ってごらん。私がすべてひき受けてあげます』という阿弥陀さまの喚びかけに励まされて、私たちは力いっぱい生きぬくことができます」と、記されています。
最後に「往生」についてですが、先日も雪が沢山降った翌朝の新聞を見て、すこし腹が立ちました。なぜ腹が立ったのかといいますと、「往生」という言葉が間違って使われているからです。「雪で新幹線が立往生した」とあるのをはじめ、車が往生し、商店が往生したという具合です。「往生」とは、決して行詰ること、難儀すること、死ぬことという意味ではありません。
「往」は、真実の世界に往くということであり。「生」は誕生です。ですから、「真実の世界に誕生すること」が、「往生」なのです。
基本用語の「往生」の項には、「阿弥陀さまとともに力いっぱい生きるものは、必ず阿弥陀さまの世界に生まれて、真実のさとりをひらくことができます」
と、明かされています。
著作 藤田 徹文
私は、浄土真宗の門徒です。いま、団地に住んでいますが、ここには、いろんな宗教の人がおられ、それぞれの宗教についての熱心な話を聞かされます。
どの話が正しいのかわからなくなることも、しばしばです。浄土真宗の門徒としてどうあるべきでしょうか。