5.なぜ般若心経を読まないのですか

  浄土真宗では、どうして『般若心経』をあげないのでしょうか。

私は、毎日『正信偈』をあげています。ところが、先日、知人より、『般若心経』の写経を勧められました。その折、おしゃかさまの根本聖典であるといわれ、そのお経をあげないのはおかしい、といわれました。

 お経は、申すまでもなくお釈迦さまのご説法です。お釈迦さまは三十五歳から八十歳まで、多くの人に、また多くの場所でみ法を説かれました。その数は俗に八万四千の法門といわれています。現在手にすることのできる『大蔵経』(お経のすべてが収められたもの)の中では、最もすぐれたものとされている『大正蔵経』には、一万九百七十巻のお経が収められています。

 なぜ、こんなに沢山のお経があるかといいますと、お釈迦さまは、根本にあるものは一つでしょうが、その時、その場の相手にあわせて、み法を説かれたからです。このようなお釈迦さまの説法のありかたは、「対機説法」とか「随器開導」といわれます。それは相手の病気に応じて薬を与えるように話されたので、「応病与薬」ともいわれています。

 お釈迦さまは、人間をすべて同じものとして、このお話さえ聞けばいいという姿勢で説法されたのではなく、一人ひとりを大切にして、み法を説いてくださったのです。ですから、根本経典といっても、お釈迦さま自身が、「これが根本経典だから、これをみんな読みなさい」といわれたのではなく、私たち一人ひとりが、沢山あるお経の中から、自分の本当にすくわれて行く道をあきらかにしてくださったお経を根本経典とするのです。

 日本にも沢山の宗派がありますが、どのお経を根本経典とするかによって分かれているのです。同じお経を根本経典としながら宗派が違うのは、そのお経の受けとめ方の違いから分かれていつのです。

 浄土真宗は、「浄土三部経」といわれる『仏説無量寿経』(大経)、『仏説観無量寿経』(観経)、『仏説阿弥陀経』(小経)を根本経典としています。中でも「夫れ真実の教を顕さば、則ち『大無量寿経』是なり」(顕浄土真宗教行証文類)という親鸞聖人のお言葉であきらかなように、『仏説無量寿経』を根本経典としているのです。

『正信偈』は、親鸞聖人がこの『大経』のおこころをあきらかにしてくださったものです。すなわち、前半は『大経』のお言葉を通して、そのこころをあかされ、後半においては、インド・中国・日本の七人の高僧の『大経』に遇われたよろこびを受けて、そのおこころをおうたにしてくださったものです。

 それで、浄土真宗のお流れをくむものは、朝、夕、この『正信偈』を読ませて頂いて、私たちの根本経典である『大経』のおこころを頂いてきたのです。

 『大経』に説きあかされている「本願の名号」によって、おすくいの道を歩ませて頂く、私たち浄土真宗のものにとって、『般若心経』がどれほど素晴らしい経典であっても、特に読む必要はないのです。

 いや、『大経』によって、自らのすくわれる道をあきらかにして頂いたものが『大経』を傍らにして、また、その『大経』のおこころをあきらかにしてくださった『正信偈』を傍らにして、『般若心経』を読むなら、おかしいことです。

6.第十八願とは

  第十八願に「十方の衆生、至心に信楽して我が国に生まれんと欲し、及至十念せん、若し生まれずは、正覚を取らじ」とありますが、いつまでたっても疑いの心から離れることが出来ない私がいるかぎり、阿弥陀さまは正覚を取ることが出来ないのではないでしょうか。ということは、阿弥陀さまの存在はないこになります。第十八願をどのように受けとらせていただけばよいのでしょうか。

「あなたが仏にならないかぎり、私は仏になりません」と、私たちの成仏を自らのこととし、私たちにかかりきってくださる仏があるのです。その仏を、法蔵菩薩というのです。

 普通、菩薩とは、仏になるために修行している方、それも他の人の幸福になる道(仏になる道)を先として、修行している方のことですが、菩薩という言葉にはもう一つの用法があるのです。すべての人の幸福を願い、幸福になる道をあたえようとご苦労くださる仏をも、菩薩というのです。法蔵菩薩とは、正しく、私たちの幸福を願い、私たちに仏になる道を開いてくださる仏なのです。

 法蔵菩薩が、私たちの幸福を願ってくださったものが四十八のご本願であり、

その根本になる誓いが十八番目の願い、すなわち、第十八願なのです。

 ですから阿弥陀如来は、一人ひとりのため、法蔵菩薩となり、四十八の願を建て、一人ひとりのためにご苦労くださる仏なのです。

「十方の衆生をすくう」ということは、「あなたをすくう」ということなのです。

親鸞聖人は、このような阿弥陀如来のお心に遇われて、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

                       (『歎異抄』)

と、よろこばれたのです。

 ですから、「いつまでも疑いの心のはなれないあなた」がいるかぎり、阿弥陀如来は、法蔵菩薩となって、「あなたがもしお浄土に生まれないようならば、正覚を取らじ(仏にならない)と、ご苦労くださっているのです。

 先輩の中には、このような阿弥陀如来のあり方を一人ひとりのために法蔵菩薩となって、一人ひとりの成仏を実現して、自らも仏となられるのが、阿弥陀如来であるとよろこばれました。

 なにか難しいことを話しているようですが、親が子を育てるあり様を思い出して頂けば、すぐにわかることです。すなわち子どもを育てるお母さんは、一歳の子には、一歳の子に合わせて振舞い、五歳の子には、五歳の子に合わせて語り、十歳の子には、十歳の子に合わせた接し方をします。三十歳になった私が、「十歳の子に合わせた接し方などできません」、「五歳の子に合わせた語り方などできません」、いわんや「一歳の子に合わせた振舞いなどできません」と、自らの年齢にとどまって子どもに接し、語り、振舞ったら子どもは育ちません。

 また、長男のときに一度、一歳にもどり、五歳に合わせ、十歳と接したのだから、次男は、もうおことわりというような母親があるでしょうか。次男ができたら、また、一歳にもどるのです。ですから、子どもにとっては、兄弟が三人いようが、五人いようが、「私のお母さん」なのです。

 そして、子どもが一人前に成長したとき、「私もやっと親にしてもらいました」、と肩の荷をおろすのが親ではないでしょうか。「お前が一人立ちするまで、私はみんなの前で、お前の親だと胸をはることができない」と、親が言ったから、「私が一人前になるまで、私には親がいない」というのは、おかしなことです。

 「あなたが仏にならないかぎり、私は仏にならない」とまで案じてくださる法蔵菩薩(阿弥陀如来)の願いが聞こえたら、「阿弥陀さまの存在はない」というような受けとりはでてこないと思います。