私は戦争で子どもを亡くした仏教婦人会の会員です。最近、本願寺が靖国神社に反対しているということを聞きましたが、それは本当ですか。本当なら、なぜ本願寺は反対するのでしょうか。
戦争で亡くなられたあなたのお子さんは、今、「○○の命」という名をもらい、神さまとして靖国神社に祀られていることでしょう。そんな、あなたにとって、靖国神社についてとやかくいわれることは、なにより不愉快なことでしょう。
ひょっとすると、本願寺が靖国神社に反対などということをお聞きになると、今は安らかに神々として祀られているお子さんを、無遠慮に踏みつけられるようにすら思われるのではないでしょうか。
正確には、本願寺は「靖国神社法案」に反対しているのであって、靖国神社をなくせよということを言っているのではありません。
では、なぜ本願寺が「靖国神社法案」に反対なのかといいますと、まず、法案の第一条に、
靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その遺族をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式行事等を行い、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする。
とありますが、「戦没者及び国事に殉じた人々」とは、単に軍人ばかりではないはずです。広島、長崎の原爆で亡くなった人、また強制的に日本に連行され、過激な労働に従事させられて、一命を失った韓国の人々も戦没者であり、国事に殉じた人々であるはずです。
英霊というとき、どうも「官軍」・「天皇の軍隊」に属した人のみを指すように思われます。本当の意味で、国のために尊い一命を失った人を追悼することに、本願寺は反対しているのではないのです。
また、「その事績をたたえる儀式行事」ですが、それぞれの宗派の人々が、それぞれの信仰と矛盾せずに参拝できれば問題がありません。
靖国神社ですから、やはり神道の形式で儀式行事が行われるのでしょう。ですから、本願寺は、誰もが自己の信仰と矛盾せずに参拝できる。廟墓的平和公園といった形態をもったもので、国事に殉じた人々を永遠に伝えるのが一番いいのではないでしょうかと、提案しているのです。
靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない。
とあります。靖国神社は文久二年(1862)年京都霊山に、明治政府樹立のために戦死した勤皇の志士の「霊を祀る」ために作られた招魂社が、その始まりであって、明らかに一宗教団体であります。国家が、一宗教を勝手に宗教でないとするようなことが許されるなら、政教分離の原則は破壊され、「宗教の自由」という基本的人権も踏みにじられてきます。このような方向の先に何があるかは、戦争を思い起こして頂けば充分ご理解できることと存じます。そのようなことを案じて、本願寺はこの法案に反対しているのです。
いや、それよりも何よりも、お念仏のみ教えによって、弥陀同体のさとりを開かせて頂く事を最高の幸福とお聞かせにあづかっているものが、「○○の命」という名のもとに神として神社に祀られることは、何としても落ち着かないはずです。
亡くなったお子さまは、仏になって、今、現に世界平和のためにはたらいていてくださっていると受け取らせて頂き、亡き子と共に、私もおよばずながら、世界の平和にすこしでも貢献させて頂こうというのが、お念仏の教えに遇わせて頂いた仏教婦人会の会員としての本当のあり方ではないでしょうか。