17. 女は業が深いのか

「女ほど業の深いものはない」と、亡くなった祖母がよく言っていましたが、どういう意味でしょうか。

 これは、女性は男性より劣っているという考えを当然として、何の疑問も持たなかった時代に、よく語られる言葉です。それは、決して遠い昔のことではありません。あなたのお祖母さん、お母さん、そしてあなたが育って来られた数年前までのことです。

 女性は男性よりも欲が深く、また嫉妬深く、造る罪も多い、だから、女性は男性より劣っているのだといったり、他にもいろいろ不当な理由をあげて、女性を差別してきたのです。

 女性は、そのような考え方を正当とする社会の中で、長い間忍従の生活を押し付けられてきました。長い不当な忍従を強いることを正当化するために、さらに、女性は前生(この世に生まれてくる前の生)で、男性に生まれてきたものより多くの罪を造ってきたので、この世では、男性の下位に置かれ、忍従するしかないという理論が考えられたのです。このような女性にとって全く不当な理論を、女性自身もいつのまにか、そういうものだと受け入れてしまいました。いや、その考えを受け入れなければ、女性が生きられないような状況を作ってきたのです。

 ですから、「女がこのように扱われるのも、女がこんなつらい人生を生きなければならないのも、みんな私自身の身から出たこと、前生の種まきが悪いから、こうなったこと」と、自らの人生を、自らに言い聞かせながら、女性はつらい人生を耐えたのです。この「前生の種まき」を「前生の因縁」とか「業」という仏教用語で正当化したのです。

 ですから、「女ほど業の深いものはない」という時、「女は、今生ではどうしようもないほど重い罪を前生で造った、だから、今生では耐えるしかない、誰を恨むこともない、すべて自分自身の罪である」という深い悲しみと、諦めがそこにはあります。

 「女ほど業が深い」とい時「業」は女性に諦めを強いる言葉として使われているのです。「業」は仏教の言葉ですが、釈尊は人間に諦めを強いるために、「業」という言葉を使われたわけではありません。

 では、釈尊は「業」という言葉を、どのように使われたのでしょうか、

比丘たちよ、いま応供・正等覚者である私も、業論者であり、行為論者であり、精進論者である。比丘たちよ、愚人マッカリは、業は存在しない、行為は存在しない、精進は存在しないと言って、私を排斥している。

というように、釈尊は「行為」「精進」ということと一つにして、「業」という言葉を使われているのです。ですから「業」は、「行為」・「精進」ということとは別のことではないのです。すなわち「業」は「行為」ということですが、それはひとつ「行為」の継続である「精進」に於いてより明らかになるのです。「業」とは、行為と共に、行為及びその行為の継続によって蓄積される「力」をいいますが、その「エネルギー」をも含めた内容をもつ言葉です。

 釈尊は「業」という言葉で、人生は「行為」の積み重ねであり、一つ一つの行為を大切にし、一つ行為の継続である「精進」を大切にすることを教えて下さったのです。もっと言いますと人間の努力は決して無駄にならないことを教えて下さったのです。文字通り、継続は力である事を明らかにして下さったのです。

 また、前生、後生ということですが、前生というものがまずあって、前生の行為の結果で、今生の全てが決まるということを言うために、前生が説かれたのではありません。

 今生のあり方、すなわち、善導大師の二種深信のお言葉を借りますならば「自身現是罪悪生死凡夫」(今、ここにいる私は、罪悪の重い、生死の深い悲しい人間)

というあり方を、み教えに照らされて知らされる時、私の今生のあり方は今生だけでは説明がつかないのです。私の罪悪の重さ、生死の深さは、今生だけでは到底説明しきれないほど重く深いのです。その重さ、深さを説明するためには、どうしても前生まで遡って考えなければ説明がつかないのです。このように今生のあり方を、より明らかにするために、前生は説かれたのです。前生は、今生の内容として説かれたのです。

 後生についても同じことです。後生が独立してあるのでなく、今生のあり方、私たちの場合ですと、その罪悪の重さ、生死の深さです。それは焼いても煮ても、どうにもならないほど重く深いものであることを、後生を語ることで明らかにして下さったのです。

 よく「私はこの根性は、焼かな直らない」という人がいますが、焼いたぐらいではどうにもならないものを持っているのが、今、ここにいる私であるということが、後生を語る意味ですから、後生も、今生の内容として語られたわけです。

 このような、今、ここにある私の「いのち」のあり方が、今生・前生・後生の言葉で語られるのです。このように深く「いのち」のあり方を見つめて行くのが仏教なのです。

 それを、前生がまずあって、前生の行為によって、今生が決まり、今生のあり方によって、後生が決まるというような表層的、一方的な受け取りをしたのが、間違った「業」という考え方です。
 それがさらに、男性中心の社会の要請もあって、「女は業が深い」という間違った考え方になりました。