31.女の節供、男の節供
三月三日には、女の子の節供で「おひなさま」、五月五日は男の子の節供で
「鯉幟」や「鎧・兜」の武者飾りをする家庭が多いのですが、浄土真宗のみ教えを聞くものは、どのように考えればよいのでしょうか。
経済的に豊かになるにつれて、「おひなさま」や「鎧・兜」を飾って節供をお祝いする家庭がふえているようです。
女の子をもつ親が、「おひなさま」を飾って、この成長を親子ともどもお祝いする光景はほほえましいものですし、男の子をもつ親が、「鯉幟」を立てたり、「鎧・兜」を飾ってこの成長をよろこぶ気持ちもわかります。しかし、ほほえましいから、それでいいということではありません。
みんながしているからと、その意味もあまり考えずにやりますと、思わぬ方向に進むこともあります。そこで三月三日の節供、五月五日の節供について、『日本まつりと年中行事辞典』から学んでみたいと思います。
節供のセツは、一年の折り目のフシブシということです。節供は普段と違って、仕事を休み、家々の神をまつり、食物を供え、家族がそろって食べる日なのです。この平常でない日は、ハレの日・モノビ・神ゴトの日・セチビなどと呼ばれます。節供は、はじめこのセチビの供え物の意味でしたが、後に転じて神をまつる節日そのものをさすようになりました。
三月三日の節供ですが、中国古代の風俗に、三月上巳に水辺の禊をし酒盛りをして、災厄を除くという行事がありました。わが国にもその風俗が移され、禊祓の風習は、わが国固有の信仰に結びつき、巳の日の祓(または上巳の祓)
として広く行われるようになりました。
巳の日の祓ということは、人形などの撫物で身体を撫で、それを水に流すことにより穢れを祓うという風習で、人形と雛遊びの雛とが結びつき、それが次第に発展して、三月三日の雛祭りという形に落ち着いたようです。
雛遊びの記録としては、『枕草子』や『宇津保物語』にも見え、かなり昔にさかのぼることができます。そして、当時にあっては禊祓などとは無関係で、むしろ子女に対する教育の道具としての雛の存在であったようです。中国においても、「礼記」に、同じ目的で、同じような行事が行われていたことが記してあります。
子女教育の思想と、子どもの災厄を除くという信仰が重なって、現在のような雛祭になりました。雛人形も昔は紙人形でしたが、だんだん豪華になり、後には、調度品を飾ったり、また白酒・草餅・桃の花などを供するようになりました。
五月五日の節供は「端午の節供」ともいわれ、中国の古い風俗では、端午には野外に出て薬草を摘んだり、蓬で作った人形を門戸にかけ、欄を入れた湯で休浴し、菖蒲をひたした酒を飲むなどの習俗でした。これは病気・邪気などをはらう目的で行われたものです。
五月の節供といえば、現在では男の子の節供ということになっていますが、各地の習俗をみると女性に関する伝承も多く、嫁の里帰りの日と伝えられている所もあります。これらは、五月が皐月、すなわち田植え月であったことと関係が深いのです。
皐月は田植えという祭りに際して斎戒禁欲し、田の神を迎える月でした。
その月の初めに、早乙女として祭りの主役をなす女性が、忌み籠りを神に祀ったのです。節供に軒にさす菖蒲・蓬などは、元来は緑の草の葉で祓い清めるために用いられた習俗が、形だけ残ったのです。
以上のような、節供のおこり等を学びますと、浄土真宗のみ教えを聞く方に、節供を積極的にすすめるわけにはいかないようです。