45.阿弥陀堂と御影堂

 本願寺は、本尊である阿弥陀さまが安置されている阿弥陀堂よりも、親鸞聖人の座像のある御影堂の方が大きいのはどうしてですか。

 本願寺の成立が、親鸞聖人のご廟所から、はじまったことによるのです。

 親鸞聖人は生活の場を聞法の場とされ、お寺を建てられませんでした。ですから、本来浄土真宗にはお寺がありませんでした。

 三代目覚如上人のころに道場ができ、それがお寺の形式をととのえてきましたが、本願寺の場合は、はじめに申しましたように、親鸞聖人のご廟所、すなわち大谷廟堂がその前身なのです。

 弘長二年十一月二十八日(新暦の1263年1月16日)に、親鸞聖人はお亡くなりになりました。翌二十九日、東山の麓、鳥辺野の南、延仁寺で火葬に付され、翌三十日に遺骨を拾い、鳥辺野の北、大谷に墓を築き納骨しました。大谷の墓は、その後、大谷の西の吉水の北に移されました。

 覚如上人のご制作による『親鸞伝絵』によりますと、大谷の墓は「南無阿弥陀仏」の名号をしるした一基の墓塔に、柵をめぐらされた簡素なものであり、吉水に移されて小堂が建てられました。そのことが『親鸞伝絵』に、「仏閣をたて影像を安ず」と記されています。

 この、面積144坪のわずかな土地に建てられた親鸞聖人の影像を安置した小堂がいろいろな変遷を経て、現在の27,243坪の境内地をもち、東西四十五メートル、南北五十七メートルの阿弥陀堂(本堂)をはじめ、堂々たる伽藍群を擁する本願寺へと発展したのです。

 大谷廟堂の堂内に、親鸞聖人の木像を安置するようになったのは、永仁三(1295)年頃からです。大谷廟堂は、親鸞聖人の末娘である覚信尼と、東国門弟の協力によって建てられたものですが、敷地は覚信尼の所有でした。

 覚信尼は、敷地を廟堂に寄進し、廟堂守護の役目(留守職)を、みずから引き受け、以後尼の子孫の中の適任者が門弟の承認を得て、就任することになりました。これが後年の本願寺の血統相続の基となりました。

 大谷の廟堂が、親鸞聖人の墓塔を覆う屋舎から、聖人の彫像を安置する影堂へと移行したのは、永仁三(1295)年頃です。そして、さらに三代目覚如上人によって、本尊阿弥陀如来を安置する寺院へと移行したのです。

 正和元(1312)年の夏には、奥州の門徒の発願によって、大谷廟堂に専修寺の額を掲げましたが、比叡山衆徒が、これを問題視し、決議文を送ってきましたので、寺額はすでに撤去されました。

 覚如上人は専修寺の額は撤去しましたが、寺号呼称は断念せず、まもなく本願寺と称しました。このように寺院化をすすめる中で、中央壇上に、宗祖親鸞聖人の木像を安置した影堂とともに、本尊阿弥陀如来を安置するお堂が必要になり、現在の本願寺の原型ができました。その後、本願寺は、吉崎(福井)、山科(京都)、石山(大阪)、鷺森(和歌山)、貝塚(大阪)、天満(大阪)と変遷し、天正十九(1591)年に現在地へ移転しました。

 現在の本願寺は、このような変遷を経ましたが、常に御影堂を中心にして発展してきました。それで、御影堂が阿弥陀堂(本堂)より大きいのです。