21.念仏中心の生活とは

念仏中心の生活とは、どのような生活でしょうか。

 念仏を生活の中心にするとは、念仏を一番確かなものとし、よりどころとして日暮らしすることです。

 私たちは、一体何を一番確かなものにし、何をよりどころに生きるのでしょうか。改めて問われるとは、はて、自分は、日頃、何を一番確かなものとして日暮らしして来ただろうか、私は何を拠りどころに生活しているのだろうかと、首をかしげるようなことではないでしょうか。

 しかし、それは一番確かなものと思っているものがない、拠りどころがないということではないのです。私たちは、無意識のうちに一番確かなものをもち、拠りどころを決めて、日暮らししています。自分でははっきりしないだけなのです。それほど私たちの生活は、自分の人生でありながら、曖昧になっているのです。

 例えば、二言目には、「私が、私が」という人は、無意識のうちに「私が」一番確かなものであり、私の拠りどころは私しかないと思っておられるのでしょう。そうでなければ、二言目に「私が、私が」が出るはずはありません。自分は間違いない、自分の考えていることは確かだという思いが、「私が、私が」になるのでしょう。

 また、何かあると、すぐに「世間体が・・・・」という人は、やはり「世間体」が一番確かなものであり、拠りどころとなると思っておられるのでしょう。

 私たちは何かやろうとするとき、何を気にし、どのような言葉が口から出てきますか。どうでもいいようなものを気にする人はいないでしょうし、また、全くその存在を認めていないものの事を口にするはずもありません。

 ですから、すぐ気にするのは、無意識のうちに自分の人生にとって深い関わりを持ち、自分の人生を左右する確かなものだと認識しているからです。また、すぐに口に出てくるものは、自分の中に大きな位置をしめ、無意識のうちに力とし、拠りどころとしているものなのです。

 ですから、あなたが今、何を確かなものとし、何を拠りどころにしているかは、あなたが、日頃気にし、二言目にどのような言葉が出てくるかを省みられればすぐにわかることです。

 何かしようとする度に、「近所の人が、近所の人が」と、言わずにおれないようならば、他の人の目や顔色を、どこかで確かなものと思い、拠りどころにしているのです。不確かな、どうでもいいものを恐れるはずはないからです。

 何かあると「日がどうの、方角がどうの」という人は、日の良し悪し、方角を確かなものという思いがあるのでしょう。また、「手相が、印相が、墓相が」といっている人も、無意識のうちに、自らの拠りどころを手相・印相・墓相においておられるのでしょう。

 ものを言うと、すぐに「家柄がどうの、主人は会社で」という人がいますが、この人は家柄というものを確かなものとし、それを拠りどころにしておられるのでしょうし、主人の会社での地位や力を拠りどころにしておられるのです。

 以上、いろいろ申しましたが、本当にそれらは確かなものであり、どのようなことに出会っても、変ることなく私の人生を支えてくれるものでしょうか。

 念仏中心の生活とは、毎日の生活においても、また、どのようなことに出会っても、「どんなことがあってもあなたを見捨てることはありません」という「南無阿弥陀仏」を一番確かなものとし、拠りどころとしての生活です。

 ですから、念仏中心の生活は、何かあったら「お念仏が、如来さまが」という生活です。他の一切のものに惑わされることもなく、また、自分を家柄や主人の地位で飾り立てることのない日暮らしです。

 念仏中心の生活をされた源左同行は、「困ったことがあったら念仏に相談しなされや」と教えて下さいました。それは、暦に相談したり、占いに相談する必要のない生活です。

 親鸞聖人は、念仏中心の生活を

 お念仏申すことは、何ものにも妨げられることのない、ただ一筋の道であります。

 そのわけは、信心を頂いてお念仏を申す人には、天地の神々も敬ってひれ伏し、悪魔や外道の人たちも、念仏者の生き方を妨げることがないからです。

また、お念仏を申す人は、罪悪の報いも受けないし、いかなる善も念仏には及ばないからです。          (『歎異抄』意訳)

と明らかにして下さいました。