44.お西さん、お東さん

 西本願寺、東本願寺の起こりについてお教えください。

 西本願寺は正式には、浄土真宗本願寺派本願寺といい、東本願寺は真宗大谷派本願寺といいます。私たちのご本山である西本願寺は、親鸞聖人の墓所である大谷廟がそのおこりであります。このことについては、「なぜ、本願寺では本堂である阿弥陀堂より、御影堂の方が大きいのか」という次のお尋ねのところで述べることにさせていただき、今回は、東本願寺のおこりを中心にお答えさせて頂きます。

 本願寺は、もともと京都の東山にありましたが、八代目の蓮如上人の時に、福井の吉崎に移り、後に京都の山科にもどりました。さらに十代目の証如上人の時に本願寺は大阪の石山(現在の大阪城の位置)に移転しました。

 十一代目顕如上人は、父証如上人の平和路線を継がれていましたが、激動の時代の中で、自らの立場を明確にしていかれました。それが天下統一をめざす織田信長と対立する結果となりました。そして元亀元(1570)年ついに信長と開戦せざるをえなくなりました。いわゆる十一年間におよんだ石山戦争であります。

 天正八年(1580)年、信長と講和された顕如上人は、和歌山の鷺森に本願寺を移されましたが、ご長男の教如上人は信長との講和に反対し、諸国に檄を飛ばし、最後まで戦う姿勢をとられました。これが後に、東本願寺の分立につながっていきます。

 後に、本願寺は大阪の貝塚、天満と移転し天正十九年(1591)年に、豊臣秀吉より土地の寄進を受け、現在地に本願寺が建立されました。寛正六年(1465)年、東山大谷の地を離れてから、実に百二十七年ぶりに本願寺は京都にもどってきました。

 寺基を京都に定め、両堂を整備された顕如上人は翌文禄元年(1592)年、五十年の波乱に満ちた生涯を閉じられました。

 顕如上人のあとを継がれたのは、ご長男の教如上人であります。ところが継職されて十一ヶ月余りたったとき、秀吉の召喚を受けました。そしてそこで教如上人は、

一、大阪退去の時居据わったこと。

二、信長にとって大敵であること。

三、秀吉の多大の尽力を感謝すること。

四、顕如上人の譲状は、第四子准如上人宛であること。

五、心を改めれば十年間の踏襲を認め、十年後は准如上人に譲ること。 

などを呈示されました。教如上人は、それらのことを秀吉の権勢等を考えて承諾されました。が、同行した坊官下間頼廉等は譲状の真偽に疑問をもち、直ちに賛同しませんでした。

 そのために秀吉の怒りをかい、結局、教如上人は当日辞職することになり、第四子の准如上人が継承されました。

 教如上人は、それからおよそ一ヵ月後、本堂の北の屋形に移られました。世人はこれうを裏方とよびました。教如上人を慕う門信徒の人は、本山参詣のついでに訪ねるものもあり、また直々に参詣するものもあって、後には、そこに御堂・広間・玄関まで建ちました。

 秀吉没後、徳川家康が勢力を伸張してきますと、教如上人は家康に接近します。慶長五(1600)年、家康が関東に兵を出した時、教如上人は、石田三成の阻止にもかかわらず、関東まで陣中見舞に行かれましたが准如上人は、三成の阻止に従って途中から帰京されました。そんなこともあり、家康は教如上人には好意的でしたが、准如上人を快く思いませんでした。

 家康は、教如上人が嫡男でもあり、難を排して関東まで陣中見舞にきたのだから、本願寺住職に再任しようとしましたが、家康の重臣本多佐渡守は、「本願寺はすでに秀吉によって表方・裏方と分立しているのだから、今さら表方を押し込めるよりも、教如上人をたてれば、門信徒はそれぞれ両本願寺に帰します。それが天下のためにもよいでしょう」と具陳しました。家康は、その意見をいれて、教如上人に現在の東本願寺の地を寄進しました。

 慶長八年(1603)年正月三日、教如上人は、上州厩橋妙安寺に安置してありました親鸞聖人の像を迎えました。五月七日、今までの御堂を移転のために取り壊し、六月八日に、烏丸の現在の地に移りました。このようにして、教如上人は、家康の庇護によって一寺を建立しました。これが大谷派本願寺の起源です。すなわち東本願寺のおこりです。