43.真宗十派について

 先日、お寺の法座で、同じ浄土真宗でも、いろいろな派に分かれていると聞きました。どうして、同じ親鸞聖人のみ教えを聞くものの中に、いろいろな派ができたのですか。

 

 同じ親鸞聖人のみ教えを仰ぐものが、いくつもの派にわかれていることに疑問を感じられるのは、もっとものことだと思います。お聞きのなっていることと思いますが、真宗は現在十の派に分かれています。しかし、これはもともと一つのものが、内部争い等によって分派したということではありません。

 そこで、どうして真宗に十の派あるのかということを、一つ一つの派の成立を通して学んでみたいと思います。

一、浄土真宗本願寺派(西本願寺)

 私たちの宗派です。親鸞聖人のご遺骨を納めた大谷の廟所を中心に、聖人の末娘の覚信尼様、その子覚恵様、そして覚恵様の子覚如上人のご苦労によって形成され、さらに第八代蓮如上人によって、現在の本願寺教団の基礎ができました。その後、歴代のご門主様のご苦労があって、今日のような、国内に一万三百余ヶ寺、海外(南北アメリカ・ヨーロッパ等)二百余の寺をもつような大きな教団になりました。

二、真宗大谷派(東本願寺)

 本願寺の第十一代顕如上人の時、織田信長が大阪石山の寺地(今の大阪城の場所)のあけ渡しを要求して、「石山合戦」が起こりました。十一年の戦の後、正親町天皇の仲裁で和議が成立しました。その後、顕如上人が亡くなられると、譲り状によって、長男教如上人ではなく、弟の准如上人が本願寺の第十二代目を継ぐことになりました。本願寺は豊臣秀吉より京都の堀川六条に土地の寄進をうけ、寺域が整備されました。これが現在の西本願寺です。

 一方、教如上人は、後に、徳川家康から烏丸七条に土地の寄進をうけ、寺院を建立しました。これが現在の東本願寺となったのです。この教如上人によってはじめられた本願寺を中心に形成されたのが真宗大谷派です。

三、真宗高田派(専修寺)

親鸞聖人帰洛後、下野国(栃木県)高田の真仏・顕智(共に聖人のお弟子)

を中心に形成された宗派です。本山専修寺は、もともと下野の高田にありましたが、第十代真慧上人の時、教線が大いにのび、現在の伊勢の一身田に移りました。

四、真宗仏光寺派(仏光寺)

親鸞聖人のお弟子の源海が建立したと伝えられる山科のお寺(興正寺、後に仏光寺と改称)を中心に形成された宗派です。第七代了源上人の時、隆盛をきわめましたが、第十二代性善上人の長子経豪が多くの寺院、門弟と共に本願寺の蓮如上人に帰順したことによって、その勢力の大半を失いました。

五、真宗興正派(興正寺)

仏光寺第十二代性善上人の長子経豪が多くの寺院、門弟と共に本願寺蓮如

上人に帰順し、蓮教と改名し、山科に一寺を建立し、仏光寺の旧称興正寺と号しました。後、本願寺と共にあり、本願寺が現在地に移転すると同時に、興正寺も現在地に寺基を定めるという不離の関係がありましたが、明治九年、興正寺および、その末寺が本願寺派より独立して構成したのが興正派です。

六、真宗木辺派(錦織寺)

親鸞聖人は関東より帰洛の途中、現在の錦織寺の土地にあった毘沙門堂に

滞在して、多くの人を教化されました。その時教化を受けた願明とその子

愚咄、慈空によって建立された錦織寺を中心に形成された宗派です。

七、真宗出雲路派(毫摂寺)

本願寺第三代覚如上人の門弟の乗専が丹波に建立した毫摂寺が後に摂津の

小浜に再建されました。時の住職善秀の弟善鎮は越前に赴き一ケ寺を建立、これも毫摂寺と号しました。この越前の毫摂寺を中心に形成された宗派が出雲路派です。

八、真宗誠照寺派(誠照寺)

九、真宗三門徒派(専照寺)

十、真宗山元派(証誠寺)

これらの三派は、三河の和田門徒の祖、円善の弟子である如導の教化によ

って形成された宗派です。

 すなわち、如導の高弟であった道性を中心に形成された横越門徒の寺が証誠寺であり、その宗派が山元派です。

 道性の子如覚を中心に形成された鯖江門徒の建てたのが誠照寺であり、その宗派が誠照寺派です。

 如導の後裔である浄一を中心にした中野門徒の寺が専照寺であり、その宗派が三門徒派です。

 

 以上が親鸞聖人のみ教えを伝える真宗十派です。

 現在では、この十派が真宗教団連合を結成して、相互に連絡連携して、親鸞聖人のみ教えを伝えるために努力しています。