7.第十八願の「三心」の意味

 第十八願の「三心」と、『正信偈』の中の「三不三信誨(さんぷさんしんけ)慇懃(おんごん)」の「三信」とは同じことですか、それとも違うのですか、その意味を教えてください。

第十八願の「三心」とは、『仏説無量寿経』の第十八願に誓われる「至心」と「心楽」と、「欲生」のことです。

至心」とは、「まことの心」ということです。「まことの心」とは、どのようなことがあろうとも、どのような状況になろうとも、絶対に変わることのない心であり、また、それは、ただ、思いとしてだけで終わるものではなく、必ず実を結ばせる心なのです。

 この「まことの心」が、私たちにあると思い込んで、私の「まことの心」で、阿弥陀如来を信じることを信心と理解していた人が多いと思います。親鸞聖人は、この「まことの心」は、私の心ではなく、阿弥陀如来の「まことの心」であることをあきらかにしてくださいました。

 浄土真宗に帰すれども

  真実の心はありがたし

  虚仮不実のわが身にて

  清浄の心もさらになし

            (『愚禿悲歎述懐』

という私たちを「どうしてもすくわれずにはおれない」という阿弥陀如来のお心が、「まことの心」、すなわち「至心」なのです。

信楽」とは、その阿弥陀如来の「まことの心」が聞こえたということです。聞こえたとは、「変わることなく私の力となってくださる阿弥陀如来」に遇ったということです。

「私が」「俺が」と「我」を張っているわりには、自らの生き方に自信がもてず、周りの人の顔色を見たり、すこし冷静に考えれば、そのまちがいが、すぐにわかるような迷信に惑わされて生きている私たちにとって「どんなことがあってもあなたを捨てることがない」という阿弥陀如来の「まことの心」に遇わせていただくことは、何よりのよろこびです。それで、単に「信」といわずに、「信樂」といわれているのです。

欲生」とは、阿弥陀如来の「まことの心」、「至心」とはどういうお心かをあきらかにしてくださったものです。すなわち、阿弥陀如来の「まことの心」とは、「生まれさせてやりたい」というお心なのです。では、阿弥陀如来は私たちに「どこに生まれさせてやりたい」といわれるのかといいますと、「我国」といわれました。「わが国」とは、申すまでもなく「阿弥陀如来のお浄土」です。

 自分さえよかったらいいという思いに生きているもの同志が、互いに「いのち」を傷つけ合って生きているのが穢土(この世)です。その中で呻吟(しんぎん)する私たちを、一人ひとりが「いのち」を輝かし、「いのち」を照らし合う浄土に生まれさせてやりたいというのが、「欲生」なのです。

ですから、第十八願の「三心」は、阿弥陀如来の「信心」をあきらかにしてくださったものです。

  これに対して『正信偈』で説かれる「三信」は、道綽禅師が、信心の正しい相をあきらかにしてくださったものです。「三信」とは、「淳心」と「一心」と「相続心」の三つです。

「淳心」の「淳」には、「厚」という意味と「朴」という意味があります。「厚」とは、深厚ということで、その時その時、右を見たり、左を見たり、腰が定まらないでフラフラしている私たちに、「どんなことがあっても私はあなたを護り、捨てることはありません。私の方にまっすぐ来なさい」という阿弥陀如来の「まことのお心」を深く、そして厚くいただくことをいうのです。

 曇鸞大師は、私たちの信心が「淳心」でないとするならば、「若存若亡」のためであると教えてくださいました。

 親鸞聖人は、この「若存若亡」というお言葉は、「あるときには往生してんずとおもひ、あるときには往生はえせじとおもふを若存若亡といふなり」

                     (高僧和讃・異本左訓)

ということであると教えてくださいました。

 このように、私たちの心がゆらぐのは、結局、阿弥陀如来の「まことの心」に遇っていないからです。「どんなことがあってもあなたを護り、捨てない」という阿弥陀如来のお心が聞こえていないからです。

 また、「朴」とは、「質朴」ということで、私のよろこんだ心や、何かをしたいということで、自らを飾りたてたり、背のびしたりせず、ありのままの人間として、阿弥陀如来の「まことの心」に信順することです。

つぎに「一心」について親鸞聖人は、「信心、二心なきがゆえに一念といふ。これを一心と名づく」 (顕浄土真実教行証文類)と教えてくださいました。

 私たちの人生には、自らの方向を選択しなければならない場面がたびたびあります。この時は右、この時は左にと決断をしなければ人生は前に進みません。 ですから、「右もいい」、「左もいい」という二つの心があるならば、人生は前に進みません。一つの心に決まって、人は前進するのです。

 目先のことしか見えない私が選んだ道ならどこに行くかわかりませんが、先の先まで見通してくださった阿弥陀如来の「まことの心」で選んでくださった道を、ただ一すじに生きる人生が、「一心」によって開ける人生であり、信心の日暮らしなのです。

 最後に、「相続心」とは、余念がまじらないことです。余念とは、阿弥陀如来の「まことの心」を疑うことです。どのようなことがあっても、どのような時でも、阿弥陀如来の「まことの心」をおもうが、余念がまじらないことです。それが「相続心」です。

この「淳心」・「相続心」は三つがバラバラということではなく、一つの信心の相をあきらかにしてくださったものです。このことを親鸞聖人は、

 相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。

憶念はすなはちこれ真実の一心なり。(顕浄土真実教行証文類)

とあきらかにしてくださいました。

 第十八願の「三心」は、信心そのものをあきらかにしてくださったものであり、『正信偈』の「三心」は信心の正しい相を教えてくださったものです。

8.二河白道と私の人生

『二河白道』とは何ですか。
私の人生とどう関係がありますか。

親鸞聖人が七高僧と慕われた中の一人、中国の善導大師が、私たちの人生のあり方と、信心の道をあきらかにしてくださったのが『二河白道』の譬喩です。それは「ひとりの旅人が西に向かって行くと、一つの細い道をはさんだ二つの河が目に入ってくる」というところから話は始まります。

 細い道の南は火の河があり、北は水の河であります。その広さは百歩に及び、深さは底無し、そして南北には辺がありません。その水と火の河の真中にある細い道は、幅わずか四、五寸です。波浪は道を湿し、火炎は道を焼き、水と火の交わりは一時も休むことがありません。

 長い道のりのどこを見ても人影さえありません。旅人がひとりであることを見て、群賊・悪獣が競って襲ってきます。旅人は死を怖れ西に逃げて行きますと、目の前に水火の二河があらわれたのです。旅人は考えました。

 この河は南に行っても北に行っても辺がない。真中に白い道はあるが、極めて狭い。二つの岸はそう遠くはないが渡れそうにない。今となっては死は疑いようがない。来た道を引き返そうと思っても、群賊・悪獣が近づいてくる。南か北に逃げようとしても、悪獣や毒虫がこちらに向かってくる。だからといって、西に向かって白道を進んでいけば、恐らくは間違いなく水の河か火の河に落ちることだろう。

 そう考えると、死の恐怖が全身をかけめぐります。そして

今、後戻りすれば私は死ぬだろう。だからといって、ここに止まっていても私は死ぬだろう。進んでいっても私は死ぬだろう。私が死をまぬがれる道は一つとしてない。どちらにしても死ぬしかないのなら、私はこの道を尋ねて、前に向かっていこう。危険があっても、既に道があるのだから、なんとしても必ず渡ろう。

 と心を決めました。すると、その時東の岸から忽然として

あなたは、心を決めてこの道をすすんでいきなさい。必ず死の難はないでしょう。もし、ここにとどまっていれば死ぬしかないでしょう。

と、白道を進めと勧めてくださる声が聞こえてきました。また、西の岸に人が現れて、

汝、心を一つに決め、念を整えて、直ぐにその道を進んできなさい。私が能く汝を護りましょう。ですから、水の河・火の河に堕ちることを畏れることはありません。

と、喚んでくださっています。

旅人は、この道を進むことを勧めてくださる声を聞き、その声を自らの身心に正しく受けとめ、心を決めて道を尋ねて直ちに進んでいきました。恐怖心もなく、また、もどろうという気持も生じません。

白道を進んで行って一・二分すると、東岸の群賊等がもどって来なさい。その道は険悪で、とうてい対岸までたどりつきません。必ず死ぬでしょう。私たちの誰一人として悪心など持っていません。

と喚ます。旅人はその声を聞いても、全く振り返りません。一心に直ちに道を念じて進んでいきますと、間違いなく西岸に到り、永遠に諸々の難から離れ、善友と相まみえ、身心の底から変わることのないよろこびがわいてくるのです。

以上が『二河白道』(散善義)のお話です。善導大師はこの譬喩によって、私たちの人生のあり方と、どう生きるべきかを教えてくださったのです。

群賊悪獣に追いかけられとは、私たちが見るもの聞くもの触れるものによって、苦しみ悩み、惑わされている様子を喩えられています。又、水の河は私たちの欲の心、火の河は私たちの怒り瞋の心を喩えられているのです。そして、さらに、み教えを求める心を白道に喩え、その心が常に欲の心と瞋りの心に汚染されている様子を「波浪が道を湿し、火焔が道を焼く」といわれたのです。

 東岸の勧める声は釈尊、西岸で喚んでくださる声は阿弥陀さまであると、善導大師は解説してくださっています。

見るもの・聞くもの・触れるものによって、苦しみ・悩み・惑わされているのが私たちの人生です。ほかの人の持っているものを見て、自分も欲しいと思い、思うように手に入らないとねたんだりひがんだりして苦しみます。聞くことによって、腹を立てたり嫉妬したり、又触れるものによって、いろいろの惑いを生じる毎日ではないでしょうか。そんな私たちが釈尊のみ教えを聞いて、道を求めようとすると、その心を乱し、その身を最後まで碍げるのは、やはり貪欲瞋恚の煩悩です。

 そんな私たちが釈尊のみ教えに励まされ、阿弥陀如来の「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てることがありません。私があなたを護りとうしますから、一すじにこの人生を生きなさい」という喚び声に護られて、変わることのない本当の幸せを得ることができるのです。

 私たちが、うれしいにつけ、悲しいにつけ称えさせて頂くお念仏が、実は、この譬喩によって明かされる阿弥陀如来の招喚の声なのです。

 お念仏は、私が如来さまに称えるものでもなければ、死者に称えるものでもありません。私が称えるお念仏は、阿弥陀如来さまが私を喚んでくださる声なのです。その声に護られ、支えられて生きる以外に、私たちが真に生きる道のないことを教えてくださったのが『二河白道』です。