38.差別と同朋運動

 差別とは、どういうことですか。

 また、同朋運動とは、どのような運動でしょうか。

 私たちは、いろんなことを盾にとって優劣をつけ、他の人を差別します。たとえば男女の性別からくる差別、障害者に対する差別、年齢差からくる差別、貧富からくる差別、職業の違いからくる差別、家柄というようなものによる差別、宗教の違いからくる差別、学歴差からくる差別、欠損家庭に対する差別、思想の違いからくる差別、人種の違いからくる差別などです。

 そして、これらの差別の基盤となるのが、国民的課題とまでいわれている部落差別です。部落差別は、「日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別」で、徳川幕府が民衆支配の手段として政治的につくったものです。すなわち、徳川幕府は二百万人の武士階級によって、二千八百万人の民衆を三百年間支配したのです。このような、普通では考えられないことを可能にしたのが身分制度です。民衆をいろいろな身分に分裂させて互いに争わせることによって、武士階級の支配体制を持続させたのです。

 明治四年に大政官布告で、いわゆる「解放令」がだされましたが、その身分撤廃は表面的なことにすぎず、現代に至るまで部落に対する差別は跡をたちません。いや、跡をたたないだけでなく、現代においても部落差別は温存助長されています。

 一人ひとりの意識が大きく開かれ改められないかぎり、差別がどれほど人間を傷つけ害しているかがわかっても、実生活の上では少しも改められません。閉ざされた意識の改革は、今、ここに生きている自分を問い直すことからはじめねばなりません。

 

 今、ここに私が生きているということはどういうことでしょうか。私が、今ここに生きているためには、次々と受け継がれてきた寿命の歴史があったのです。その寿命の歴史はどこまでさかのぼれるのでしょうか。五代や十代ではありません。何百代何千代とさかのぼることができるでしょう。文字通り、「量ることのできない寿命」を、親をご縁として恵まれたのですが、今ここに生きている私です。

 では、「量ることのできない寿命」さえ恵まれれば、私は生きていることができるのでしょうか。私が、今ここに生きているのは、目にみえるもの見えないもの、ありとあらゆるものの恩恵をこうむって生かされているのです。今、ここに私をあらしめてくださっている一人のはたらき、一つひとつの恩恵、文字通り、私をはぐくみ支えてくださっているはたらきを光明といただくならば、今ここにいるわたしは、「量ることのできない光明」につつまれ、照らされて生きているのです。

 私は、「量ることのできない寿命」を恵まれ、「量ることのできない光明」にささえられて、今ここに生きているのです。この「量ることのできない寿命と光明」の世界を、インドの言葉で「アミダ」といいます。又このようなあり方を、仏教では「一如」というのです。ですから、私たちは、すべてアミダという一如の世界の中で、生かされて生きているのです。

 

 凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、衆水の海に入りて一味なるが如し。

                        (『正信偈』)

という親鸞聖人のお言葉がありますように、アミダの世界はなんのわけへだてもない「一味」の世界であり、またそれは、

 

 南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。          (『御文章』)

 

と、蓮如上人があきらかにしてくださいましたように、すべてのものがひとしく遇される「平等」の世界です。

 私たちは、このような「一味」であり、「平等」であるアミダという一如の世界の真ん中で生かされて生きているのです。

 

 無量寿・無量光のアミダという一如の世界の真ん中にありながら、小さな自らの世界をつくり、他を敵視したり蔑視したり差別して、自らの生命を支えて下さっている人やものを傷つけ害して、結局は自らの生命をも害しているのが私たちです。

 そんな私たちに、何とかして、アミダという一如の世界を知らせたいと、常にはたらきかけてくださる方が阿弥陀如来です。阿弥陀如来のよび声、「南無阿弥陀仏」に遇うことによって、私の閉ざされた意識が開かれ、自らの小さな世界が打ち破られるのです。「南無阿弥陀仏」によってあたえられたこの目覚めこそ、親鸞聖人が私たちにおすすめくださる信心なのです。

 今までは、自らの小さな世界の中を身内、外を他人、中は味方で、外は敵と決めつけて、自らの世界の外のものをのけ者にし、また敵視して生きてきた私たち。そんな私たちが「南無阿弥陀仏」によびさまされて、阿弥陀如来のお心に目覚める時、他人・敵など一人もいなかった、みな同朋であったという深い自覚が与えられるのです。すべて一つの生命を生きる仲間であったという目覚めが信心です。信心とは同朋の発見なのです。他人・敵などどこにもいないのです。みんな「われら」なのです。

 親鸞聖人は、常に「われら」の世界を生きられた方です。そのことは、

 

    「十方衆生」といふは十方のよろづの衆生なり、すなわちわれらなり。

                      (『尊号真像銘文』)

 

    れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなる                   (『唯信鈔文意』)

 

    釈迦如来・弥陀仏 われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、われらが無上の信心をばひらきおこさせたまふ。  (『親鸞聖人御消息』)

 

などのお言葉によってあきらかです。

 同朋とは、「われら」という言葉で表現される仲間のことです。それはさらにいいますと、

 

 一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。 (『歎異抄』)

という間柄です。

 同行とは、阿弥陀如来のお心にめざめ、同朋を発見した同信の仲間であり、一人でも多くの人に阿弥陀如来のお心にめざめることをすすめて、同朋の世界を切り開いていこうという報謝行に生きる者のことです。阿弥陀如来より信心を恵まれた同行が、「われら」の世界の実現をめざす報謝行に生きようとするのは必然のことです。

 この同朋の世界の実現をめざす報謝行、すなわち、生活実践を同朋運動というのです。ですから、同朋運動を自らの運動として推進することこそ、同行のしるし、み教えに生きるしるしなのです。

 同朋運動は、阿弥陀如来のお心にめざめ、同朋を発見した同行、すなわちみ教えに生きるものの生活実践であります。