22.念仏者の家庭生活

 み教えを喜ぶ家庭には、問題の行動を起こすような者はでないという人がありますが、どうでしょうか。

 お尋ねの中で、明確でないことがいくつかありますので、的を得たお答えになるかどうか心配です。

 まず第一に、み教えを喜ぶ家庭ということですが、家庭の中にお念仏の教えを熱心に聞いている人がいる家庭ということでしょうか。また、特に誰がということはないが、家庭が揃って朝夕お仏壇に参るという宗教的雰囲気のある家庭ということでしょうか、そのあたりがはっきりしません。

 次に、問題の行動ということですが、非行とか、自殺ということでしょうか。それとも、なにか法律に触れるようなことを言うのでしょうか。法律に触れないが、道徳的に問題があるというのでしょうか。このあたりも幅が広くて捕らえにくいのです。ですから、始めにもお断りしましたように、お尋ねと少しずれるかも知れませんが、私の領解を述べさせて頂いてお答えにさせて頂きます。

 み教えを聞くことによって問題のある人が、問題のない優等生になると思っておられる人が、案外多いのではないかと思います。このお尋ねの中の「み教えを喜ぶ家庭には、問題の行動を起こすような者はいないという人」も、きっと、そのような思いで話されたのだろうと思います。

 確かにみ教えを聞くことによって、問題のある人間が、問題のない優等生になればいいのですが、悲しいことになかなかそうなりません。

 み教えを聞く本人さえ、なかなか問題のない優等生にならないのですから、どれほど宗教的雰囲気のある家庭にあっても、問題のない優等生ばかりということにはならないのです。
 それでは、何のためにみ教えを聞くのかと思われるかも知れません。そこで、み教えを聞くということは、どう言うことかと言うことについて考えてみたいと思います。私たちは平素、自分を優等生とまでは思わなくとも、問題のある人間だとは思っていないと思います。それどころか、「問題のあるのはあの人間だ、あの人にも困ったものだ」と、他の人の上に問題を見ているのではないでしょうか。

 そんな私が、み教えを聞くことによって、自分の中にある困った問題に気づかされるのです。自分の中にある困った問題とは、どんな問題でしょうか。仏教の言葉で言いますと、煩悩という問題です。

 親鸞聖人は、煩悩について

 煩は身をわづらはす、脳はこころをなやますといふ。 (『唯信鈔文意』)

ことであると教えて下さいました。すなわち私たちの「身をわづらは」し、「こころをなやます」貪りの心(貧欲)や、いかりの心(瞋恚)等のことです。これらは、本当のことが明らかに見えない(愚痴)がゆえに起こります。

 少し人生が順調に行けば、もっともっとと貪り、足る事を知らない心の病が貧欲です。反対に人生が自分の思うように行かないと、周りの人やものに怒りをぶつけて、少しも自らを省みない病が瞋恚です。

 こんな病を沢山持っているのが私たちです。そして、これらの病は生命が終わるまで治りません。このような病気の人を、「凡夫」といいます。聖人は、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も於保く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず。    (『一念多念証文』)

 と教えて下さいました。

 み教えを聞かない人は、多く「それが人間」と、当然視していますから、自分に問題があることに気づきませんが、み教えを聞くと、煩悩の身を知らされ、自分こそ一番問題がある人間であったと気付かされるのです。

 私たちの身に具わった煩悩は、縁にふれることによって、取り返しの付かない行動さえ起こす事になります。ですから、逆に言うと、大きな問題を起こさないのは自分がしっかりしているのではなく、問題行動に私をかりたてるような状況のないところに、自らが置いて貰っているからです。

 み教えを聞けば、すぐ問題の行動を起こさない私たち、いや、宗教的雰囲気の中で育てられたら、すぐ問題の行動に走らないという私たちなら、阿弥陀如来の「たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも」(讃仏偈)というご苦労は必要なかったでしょう。

 み教えを聞くとは、縁にふれたらどちらを向いて走り出すかわからない危なっかしい私のことを、心底案じて下さる阿弥陀如来の大悲心に遇う事なのです。