32.いじめと非行について

 いじめや非行が最近よく問題になりますが、仏教婦人としてどのように考えればいいのでしょうか。

 いつの時代にも大なり小なり、いじめや非行はあったでしょうが、最近のいじめや非行は、特にその内容が陰湿であるところに問題があります。

 多くの人が、それぞれの立場から、傾聴すべき意見を述べられておられますが、私は、人間が一番大切な「いのち」のあり方を見失っているところに、その原因があると思います。

 科学が驚異的な発達を遂げ、過去の人が知らなかったことを沢山知るようになりました。しかし反面、私たちの先人が肌身で実感し、知っていたことがわからなくなっている面があるのではないでしょうか。

 目まぐるしく変わる世の動きに目を奪われて、一番大切な自らの「いのち」のあり方を見失っているのが、現代を生きる私たちです。

 私が、今、ここに生きているということは、どういうことっでしょうか。

ここに一つの「いのち」があるといういうことは、どういうことでしょうか。この辺まで掘り下げて考えないと、いじめや非行の問題を本当に解決する道は開けてきません。

 「大人が悪い」、「今の社会が悪い」、「教育が悪い」、「あれが悪い」、「これが悪い」と、いくら悪者をつくってみても問題が複雑になることはあっても、解決につながることはありません。

 一人ひとりが、自らの「いのち」のあり方に目が向かない限り、どうにもなりません。それは、ただ自らの「いのち」を見つめておればいいというのではなく、「いのち」のあり方に気付く時、自ら明らかになってくる、本当の人間の生き方を実践することが大切なのです。

 「いのち」の本当のあり方を、お釈迦さまは、「縁起」ということで教えて下さいました。「縁起」とは、「いのちは単独では存在することができない」ということです。すなわち、一つの「いのち」が存在する為には、その「いのち」をささえる無数の「いのち」があるということです。言葉を言い替えれば、私が今、ここに生きているためには、「私の「いのち」をささえてくださる無数の「いのち」があるということです。

 私たちの周りにある全ての「いのち」が、私の「いのち」を、ここに、今、生かしてくださっているのです。すなわち、隣の人が、向かいの人が、いや一度も顔をみたこともない人が、私の「いのち」をささえてくださっているのです。いや、人間だけが私の「いのち」をささえているのではありません。街路の一本一本の木が、私の「いのち」ささえてくれているのです。

 私の「いのち」にとって、他人など一人もこの世に存在しません。私の「いのち」にとって、関係ないものなど一つとしてありません。文字通り、親鸞聖人がいわれるように、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母・兄弟なり」(歎異抄)であります。

 このことを忘れているから、他の人をいじめたり、他の「いのち」を脅かすようなことができるのです。いや、自らが他の人をいじめなくとも、また、自らが他の「いのち」を脅かさなくとも、他の人がいじめられ、他の「いのち」が脅かされているのを平気で見過ごすのです。

 いじめを知っていても、なるべくかかわらないようにと目をそらし、非行の現場にいても、つまらないことにかかわって、自ら傷つくようなことがあったらと背を向けている人が、いじめや非行を許しているのです。

 「この世に他人は一人もいない」、「この世に関係ないものなど一つもない」と、みんなが、自らのこととして問題に対応していくようになれば、いじめや非行が、今のように横行しないでしょう。

 「いのち」の真のあり方を、常日頃から聞いていただいている仏教婦人の一人ひとりが、みんなの人に呼びかけ、手を取り合って立ち上がってくださったら、状況は大きく変わると思います。六千単位もある仏教婦人会ですもの。