実家のことですが、仏壇が二つあります。父方と母方の仏壇です。母の両親は亡くなり、兄も早くして死んだため、母一人しかいないのです。母が「一つの家に二つも仏壇はいらないと思うけれど、姓が違うので一つにできないのではないか」と申します。いかがでしょうか。
お仏壇とは何かということを、はじめに考えておきたいと思います。そのことが仏壇を安置するわけについて、『浄土真宗必携』に
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仏壇は、わたくしをお救い下さる如来さまを礼拝するために安置するものであり、家庭生活の中心となるものです。仏壇のない家庭は、羅針盤のない船のようなものといえましょう。
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うちには亡くなった人がいないから、仏壇はまだいらないと考える人がいますが、とんでもない間違いです。仏壇は、死者のためのものでもなく、また位牌をおく場所でもありません。日々を生きる力のもとである如来さまのお慈悲に、わたくしがあう場所なのです。
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家庭一人一人が偉いものになっていては、家庭はとかく円満を欠きますが、仏前に謙虚に座して如来の大悲を仰げば、自らの姿を知らされ、心が明るく開けてくるでしょう。
とあります。このことから明らかになることは、
仏壇とは、
1.
如来様を安置するもの
2.
死者のためでもなければ、位牌を置く場所でもない。
3.
自らの姿が知らされ、心が明るく開けてくる場。
です。
如来様は、自らの小さな殻に閉じこもって、「わしが」、「わたしが」と、互いに「我」の垣根を築き、溝を掘って対立している私たちに、「その垣根をとってごらん、その溝をこえてごらん、みんなが幸せになる世界が開けてくるよ」ということを、姿で語りかけ教えてくださっているのです。
如来さまの上げた右の手の相を、「招喚の印」といいます。「いつまでも、そんな小さな我の殻の中で頑張っていないで、広い世界にでていらっしゃいよ」と、私たちを招き喚んでくださる相です。如来様の下げた左の手の相を、「摂取の印」といいます。「思いきって小さな我の殻から出てきてごらん。どんなことがあっても私はあなたを見捨てることはありません」と、私たちをだきしめにきてくださる相です。
私たちが、お仏壇にお参りするのは、如来様が相で語りかけてくださることを聞かせていただき、自らの姿と、自らの進んでいく道を教えていただくためです。それで、「仏壇のない家庭は、羅針盤のない船」にたとえられるのです。
ところで、おたずねについてですが、どうも、おたずねを読むかぎりにおいては、○○家庭の仏壇、△△家庭の仏壇という思いがあるのではないかと思います。もっといいますと、○○の家の先祖をまつる仏壇と、△△家の先祖をまつる仏壇という思いで一つにできないのではと、とまどっておられるのではないかと思います。
はじめに申しましたように、仏壇は○○家の位牌を置く場所ということではありません。また、如来さまは、○○家と△△家とをわけて、知らず知らずのうちに心で垣根を築くようなことをよろこばれません。
住職さんや家庭の人とよく相談して、一つのお仏壇にされるのが、本当だと思います。