18.「五障・三従の身」とは

「ご文章」の中に、「女人の身は五障・三従とて男まさりて、かかる深き罪のあるなり」(五帖目七通)と述べられていますが、女性の一人として、抵抗感のあることは否めません。このお言葉は、どのように味合せて頂いたら良いのでしょうか。

『ご文章』とは、ご承知のように、本願寺の八代目・蓮如上人が、私たちにお書き残して下さったお手紙です。そのお手紙の中に、ご質問にあります「女人の身は五障・三従である」という言葉が数回出てまいります。

 「五障」とは、五つの障りということで、

一、釈尊当時のインドの宗教であるバラモン教で、最も崇拝された梵天王になることができない。

二、インドの神々の帝王である帝釈天になることができない。

三、人命を害し、人の善事を妨げる魔王になることができない。

四、偉大な統治者である天輪王になることができない。

五、自ら真理をさとり、他人に真理をさとらせる究極の覚者、すなわち仏に成ることができない。

ということであります。

 釈尊の説かれたところを正しく聞き、実践すれば、すべての人が間違いなく仏になるという教えが仏教です。その仏教の教えの中に「女人は仏になることができない」という「五障」という考えがあれば、女性だけでなく、本当に仏教を聞いている人ならば、抵抗感があるのが当然です。

 「三従」とは、「女人は幼少の時には父母の命令に従い、妻となっては夫の命令に従い、老いて夫と死別して後は子供の言葉に従わねばならない」という考え方であります。こういう「三従」という考え方は、すでに紀元前二百年から西暦二百年の間に形が整えられた、古代インドの法律書である『マヌ法典』に出てきます。

 この『マヌ法典』は、

 少女、あるいは若い女性、あるいは年老いた女は、何事をも一人でしてはならない。たとえ、家事といっても。

 女性は幼少の頃はその父に、若いときはその夫に、夫の死後は息子に従うべきである。女性は決して独立して生きてはならない。

と、女性の自由を、全く認めず、ただ、男性に従属すべきであると規定されています。

 このような「三従」の考え方は、中国の儒教により、一層強化され、日本においても、儒教を通して一般民衆に徹底されました。

 このように、女性の人格を無視したような「三従」の考え方に、女性として抵抗感のあるのは、当然過ぎるほど当然なことでしょう。いわんや「男にまさり、かかる深き罪のあるなり」といわれれば、黙っておれないのが当たり前です。

 しかし、蓮如上人の頃には、これらの言葉が女性の人にも、何の抵抗もなく受け入れられたようです。このことは、一体、何を物語っているのでしょうか。

 当時の女性は、「五障・三従」の言葉に抵抗を感じるどころか、これらのことがらを真理と受け止め、女性自身、女人とは男性より劣り、つまらないものがあり、男性に従属するのが当然と思っていたのです。それは、男性中心の社会が、女性を低い地位に置き、また、そのことを当然と受け取るような教育を徹底してきたからに違いありません。

 蓮如上人は」自ら「五障・三従とて、男にまさり、かかる深き罪のあるなり」と思い込んでいる女性に、すなわち、そんなことはないと言っても、なかなか受け取ることの出来ない当時の女性に、たとえ「五障・三従の身」であっても、救われていく道のあることを明らかにしようと、ご苦労下さったのです。

 阿弥陀如来の本願に遇うことによって、救われることなど考えようのなかった女性に、救われる道のあることを力説して下さったのが、蓮如上人であります。そのことは、

 然るに阿弥陀如来こそ(女人をばわれひとり助けん)という大願を発して救いたまふなり、この仏をたのまずは、女人の身の仏に成るといふことあるべからざるなり。                                     (『御文章』)

といいきられるお言葉から、味わうことができます。

 「ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむる時は、さらに男女・老少を簡ばざるものなり」、「在家・出家・男子・女人を簡ばざることなり」(一帖目二通)と、すべての人間が、ひとしく救われていく道を明らかにしてくださったのが、蓮如上人であります。